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扨また大塩平八郎に一番関係深いのは、般若寺村の橋本忠兵衛でござい
ます、此忠兵衛の娘はおみねと申して、当年十九歳、此お峰は元来大塩格
之助の妻にさせるつもりで、忠兵衛は、当分は娘分として大塩の屋敷へ遣
はし置きましたる処、英雄は色を好むと云ふ譬へもあるが、平八郎として
は実にあるまじき事ではございますが、いつしか此お峰に、舅たるべき身
を以つて手を附けました。
じ
今日の学者先生は、此一事は飽までも非認して、決してそんな事はない
と云つて居られますが、或人の説では、平八郎、近頃殆んど乱心でもした
あら
やうに気が暴くなり、此儘捨置いては如何なる結果になるかも知れないか
やわ
ら、橋本忠兵衛は平八郎の身を思ひ、心を軟らげる為に、娘お峰に言ひ含
わざ ちぎ さ
めて、態と不義の契りを為せたのだ、と申す事を聞きましたが、或はそん
やど
な事であつたかも知れない、何にしてもお峰は因果の胤を身に姙しました
は ぢ
ので、モウ如何する事も出来ない、そこで平八郎は忠兵衛に恥辱を包まず
うち
委細を打明かし、家へ預かつて安産をさせて呉れいと頼み、般若寺村の橋
本方へ帰りましたのは、此騒動を起す前年、即ち天保七年申年の秋の事で、
みち うみおと
其後お峰は月満て、同年十二月廿二日に男子を分娩しました、平八郎は大
な づ はんぎやく
きに喜び、今川弓太郎と命名けました、モウ此時から平八郎は、反謀の企
てがあつたものと見えます、と云ふのは、我子に今川と云ふ姓を名乗せま
したのは、大塩の家系を調べると先祖は今川了俊より出でゝ、世々今川家
の臣となりしと云ふ事がございますから、大塩の名で旗を揚げるより、今
川で旗揚げをした方が成功すると思つて、殊更に今川を名乗せたのだと云
ふ説もございます。
扨平八郎の妾ゆうは、兎角近来は病気勝でございますから、橋本忠兵衛
の家で養生をして居りました処へ、また二月七日の事、平八郎はお峰が産
後の肥立が宜しくないと云ふので、弓太郎と下女のお律との三人を、橋本
いよ/\
忠兵衛の家に預ける事にいたしましたが、愈 事を挙ぐる事になつたので、
忠兵衛は平八郎と相談の上、自分の親類で摂津川辺郡伊丹の紙屋幸五郎と
云ふ者の家へ、おゆうを初め、お峰、弓太郎の外に、平八郎の養女にして
ございました、宮脇志摩の二女おいくと云つて、当年六歳になる娘と、格
之助の養女としてあつた、おたかと云ふ十三歳になる娘、これに下女のお
律を加へて都合五人の者を、匿まつて貰ふ事に致しましたが、表向きは中
山寺の観音へ参詣かた/゛\、多田の温泉へ保養に行くと云ふ事にして、
大阪を立出でました。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その156
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その93
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