Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.6

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第45号』


2001.2.26

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇


      目   次

第137回例会報告

(1)篠崎小竹よりの書
 ・石崎東国『大塩平八郎伝』
 ・「咬菜秘記」
(2)松平紀州之書
(3)はりまや喜六書
(4)山城守家来高橋勝右衛門答平山名助書

○「篠崎小竹と野田笛浦と月瀬」
○『篠崎小竹(抄)』(木崎愛吉著 玉樹香文房)


第137回例会報告

 第137回例会(『塩逆述』からは第70回)は一月二九日に開催、巻七(下)の初めから六丁まで読み進んだ。参加者は、一五人であった。 。

(1)篠崎小竹よりの書

 史料には、差出人も宛先も記載されていない。ただ、編者が付けた「篠崎小竹よりの書」という小見出しがあるのみ。ここでは、この見出しを信じるしか術はない。では、小竹は、誰に宛てて書いたのだろうか。「先頃序文御峻据避遊、御先見之明奉感服候」とあるので、大塩の本に序文を依頼され、断ったといえば、佐藤一斎である。

 大塩平八郎は、天保四年一二月暮、佐藤一斎に藤樹「致良知」真蹟の跋文と『儒門空虚聚語』を送り、『古本大学刮目』への序文の執筆を依頼した。それに対して、佐藤一斎は翌年、先の『儒門空虚聚語』につき、文頗る英邁激切に過ぎ、温順和平の意を欠くと評し、『古本大学刮目』の序は林家羽翼の立場より、それに異を立てることはできないので、依頼には応じがたい旨の返事をした(『日本の名著 大塩中斎』の年譜)。

 そして、大塩の乱が起こったとき、小竹は、野田希一と月ケ瀬に梅を観に行っていたという。それについては、Nさんが調べられので、参照してください。

 また、幸田成友の『大塩平八郎』では、篠崎小竹について次のようにふれている。

 参考に、『咬菜秘記』の当該場所を「大塩の乱資料館」から再録しておく。

(2)松平紀州之書

 この書簡は、丹波亀山藩主松平紀伊守が羽太庄左衛門に宛てたものだが、羽太は御目付で、同資料が「浪華騒擾紀事」(大阪城天守閣蔵)にも収録されている。

 以前にもあったが、大塩残党が、摂津の神峯山寺に立て籠もったという噂があり、梶野京都町奉行から呼び出しがあって、知らせがあり次第、出動できるよう準備しておくように達しがあった。同様の達しが京都所司代からもあった。

 摂津の神峯山寺の北といえば、亀岡にあたるので、当然といえば、当然の手配であろう。

(3)はりまや喜六書

 大塩大火で見舞状をもらったはりまや喜六が、三月晦日に認め、四月二日に差し立て、同一三日に江戸に着いた書状である。最後の方で「河新儀兼々大塩氏立入候ニ付御疑を受御預ニ相成候処」とある。河新とは、河内屋新兵衛のことで、例の大塩が蔵書を売って施行した際の書林であることから、はりまや喜六は同業かも知らない。内容的には、大塩父子の最後や、物価高について書き送っている。

(4)山城守家来高橋勝右衛門答平山名助書

 これも、江戸からの見舞状に対する返書で、書き手の高橋勝右衛門は、跡部山城守の家老である。宛名の平山名助については不明であるが、「此度一件ニ付悴善之助手柄致候趣御聞及御賞味下扨〃恐入奉恐存候」とあるので、近親者か気心のしれた同輩かもしれない。  内容は、大塩の乱のあらましを述べるとともに、山城家の様子も「若旦那並奥向者皆〃十九日昼頃御定番御下屋敷玉造迄為立退申候、何レも安泰にて廿四日夕方帰宅 被致候、御安意可被下候」と書き送っている。


 『塩逆述 巻七下』の最初の史料について少し補足したいと思います。

 野田希一(笛浦 1799-1859)は篠崎小竹(1781-1851)と親しい関係で、それは、昌平黌の古賀門下というところから生じたものと思われます。乱の起きた日は、大和・郡山藩領の月瀬に同伴で観梅に行っていました。

 「月ケ瀬」(添上郡月ケ瀬村尾山ほか)は、今の季節、一万本の梅林が電車の広告にもでているほどの名所です。ここが有名になったのは、文人墨客が多数訪れ、作品の中でその美しさを紹介したからだと言われています(『月瀬記勝』など)。芭蕉、山陽、拙堂、諭吉、鉄斎。そしてこのふたりは、大塩の乱当日、観梅のため来遊していました。最後に小竹の伝記から、関係部分を抄録しておきます。

 小竹は、若いころに坂本天山に九州に招かれたこともあり、二度目の江戸遊学で精里に教えを請けました。養子竹陰も古賀門です。ちなみに、小竹の養父三島の墓碑銘(天徳寺)は精里の筆になり、小竹の墓石、正面の字は希一のものです(希一は書もよくした)。

 精里をはじめ、各地の名士が来坂した時には、小竹の養父三島が参加していた結社混沌社の社友との交流があったといわれます。小竹が養父の跡を継いだ私塾梅花社も、全国にその名を知られる存在でした。門人帳の記名は千五百人近くに達します。小竹は山陽の京都在住を世話し、京都の医者小石元端(1784〜1849)に大塩を紹介したのも小竹でした。その診断書も残っています。

 希一は、田辺藩士に生まれ、一三歳で江戸に出て、古賀精里、古賀庵に師事し、田辺藩からも学資を支給されて、学問を大成させました。小竹、拙堂、坂井喜山とともに「文章四大家」といわれます。乱の当時は、江戸で学塾を開いていて、大坂にも講説に赴くこともあったようです。乱のときの大坂滞在目的は不明ですが、被災地域に居を構えていたため、延焼したようです。嘉永三年、藩主牧野節成に帰郷を命じられて、のちに家老になっています。「牧さんに過ぎたるものが二つある、時の太鼓に野田希一」。

 明治二九年に「大塩平八郎の話」(『名家談叢 第12号』)などを出して論争を呼んだ田中従吾軒は、希一の弟子です。  『古本大学刮目』について、幸田成友の『大塩平八郎』(1942 p79)では、序文を一斎と拙堂に依頼しましたが、「前者は」「謝絶」、「後者は」「脱稿しなかったらしい」と書いています。石崎東国の『大塩平八郎伝』(p226〜)にその一斎の書簡が出ています。従って、『塩逆述』の篠崎書簡の宛先は、佐藤一斎の可能性が高いと思われます。(N)

参考書目
『三百藩家臣人名事典 第5巻』(新人物往来社 1988)「田辺藩」
『コンサイス日本人名事典』(三省堂 1994)
『浪華儒林伝』(石浜純太郎著 全国書房 1942)「梅花社の篠崎父子」
『大阪の学問と教育』(毎日新聞社 1973)
『京都の医学史 資料編』(京都府医師会 1980)
『角川日本地名大辞典 奈良県』
『奈良花の名所12ケ月』(山と渓谷社 1997)
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  『篠崎小竹』(木崎愛吉著 玉樹香文房 1924 p42〜48より) 


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