Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.1

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第46号』


2001.3.26

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇


      目   次

第138回例会報告

(4)山城守家来高橋勝右衛門答平山名助書(承前)
(5)両御番頭呈書
(6)御代官根本善左衛門御届
  ・「一揆」について
(7)松平下総守御届
(8)酒井雅楽頭御届

○勝海舟『氷川清話』


第138回例会報告

 第138回例会(『塩逆述』からは第71回)は二月二六日に開催、巻七(下)の六丁から十三丁まで読み進んだ。参加者は、一二人であった。

(4)山城守家来高橋勝右衛門答平山名助書(承前)

 続いて徒党の名前などを書き上げている。名前については概ね正確であるが、御弓同心(?)堤半左衛門など、ほかの史料にない名もはいっている。また、書き上げの順序について、平八郎と格之助が先頭にくるのがよくみられるが、これは少し異なる。また、淡路町に残された品々の書き上げもある。前回でてきた「此度一件ニ付悴善之助手柄・・・」は姓が違うが文役山本善之助のことかもしれない。『甲子夜話』巻四一9項に「格別ニ働候」者として名が挙がっている。

(5)両御番頭呈書

 老中あての大番頭の書である。菅沼織部正定志は三河・新城、北条遠江守氏喬は河内・狭山。一件の概略と城内は無事であったという報告。二月二十一日に書いたものと思われる。『甲子夜話』巻四一28項に、大番頭(北条北条遠江守とは親しい関係たったのでこの人であろう)が九月帰府したときの話として「御本丸ヲ守ル事」が任ゆえ出馬しなかったとある。(中)7や(下)の終わりにも番士の書がでてくるが、城内に留まって城の警護に勤めたため、戦闘は経験しなかった。

(6)御代官根本善左衛門御届

 根本は、鈴木町代官で(会報12号「代官根本善左衛門」参照)、東町奉行跡部よりの達により出張ったこと、事件の細部について報告している。宛先は江戸の勘定奉行であろう。根本は、事件関係者の取り調べ等の中心になっていたようである。

  ●「一揆」について

「一揆」ということばについて疑問が出たが、『近世の百姓世界』(白川部達夫 吉川弘文館 1999)では、「武装蜂起=一揆」で、「百姓一揆という言葉が、一般的に使われるようになるのは、一九世紀になって大規模な打ちこわしをともなう強訴がひろまってからだった。」「一揆騒動ニ而」「大塩平八郎起一揆及乱妨候ニ付」(『甲子夜話』)「平八郎一揆を起し」(『桜斎随筆』)というように他の史料でもしばしば見られる。『塩逆述巻四』(25)「京ヨリノ宇野氏書簡」 にも「全一揆大変之趣」という表現がでてきた(「会報9」参照)。

 藤田東湖「浪華騒擾記事」に、斎藤弥九郎が本多為助からきいた話として、次のように書き留めている。

 三郷の消火活動については、島野三千穂氏の論文を以下に抄録する。

(7)松平下総守御届

 二月二九日付の東照宮の被災報告。全焼したが、御神輿は「御立退」になり「無別状」と「御宮付役人」より申し越した。

 松平下総守は忍藩主で、大坂城主忠明のときの元和三年、東照宮を造営し、以降大坂の地を離れても東照宮(建国寺)を警護してきた。そのため蔵屋敷も堂島新地から寺内に移していた(『てんま』宮本又次 大阪天満宮 1977 p365〜「川崎東照宮と別当」参照)。 大塩党が建国寺を砲撃したかどうかについては、相蘇一弘氏の「大塩の乱と大阪天満宮」(『大阪天満宮史の研究 第二集』思文閣出版1993)の論考が、類焼であったことを明確にしているが、ここにでてきた史料もそれを裏付けるものか。

 『塩逆述』巻七 (上) (13)「坂本鉉之助より之書」関連で坂本鉉之助の忍藩士に嫁いだ娘の話が「咬菜秘記」に出ている(「会報36」参照)。

 「御立退」になった「御神輿」は三月五日に「還御」すると御触れがでている。

(8)酒井雅楽頭御届

 酒井雅楽頭は姫路藩主。大坂城代よりの達で蔵屋敷にいる家来を差し向けた。大塩らの人相書が大坂から在所家来へ申達あったと、二月二十二日付で連絡があったという三月一日付届け。これも宛先は老中であろう。

     (和田氏が欠席のためNがまとめました。)


   岡田黄石

 岡田黄石は、大塩中斎の高足宇津木矩之丞の兄だがこの宇津木といふのは、なか\/ 剛直の男で、大塩があの『救民天誅』の旗を立てゝ、兵を挙げんとした時に、直ちにその前へ出で、「先生このたびの御挙動は平生の沈着にも似ず、暴虎馮河の軽挙である。大義は今更小生が申上ぐるまでもないが、いかに長らく先生の高恩を受けて居ればとて、聖賢の遺訓に背いた御挙動、反逆に類する御計画には、小生断じて御賛成致すことが出来ない。願はくは先生今一応の御熟慮を煩わはしたい」と切諫した男だ。(後略)

   大塩平八郎

おれが若い時、或る人から大塩平八郎の著書だといつて、二冊本の語録やうのものを借りて見たことがある。ところが、その文章といひ議論といひ、実に卓抜なことばかりで、おれもこの本のために大層益を得たことがある。

 しかるに、その後、今の嘉納治五郎の親から、明人呂新吾の『呻吟語』といふ本を借りて見たところが、さきの大塩の著書といふのは、或はこの『呻吟語』を翻訳したものではあるまいかと思はれる点があつた。なにしろよほどの名著であつたが、惜しいことには、その後どうなつたか、行方が分らなくなつてしまつた 

注 海舟が借りて読んだ二冊本の大塩の著書とは、おそらく『洗心洞箚記』上下巻であろう。また、嘉納治五郎の親とは、神戸の豪商嘉納次郎作だが、海舟は『履歴と体験』の「後援者渋田利右衛門」のところでは、治右衛門としゃべっている。

  (勝海舟『氷川清話』講談社文庫 昭和四九年)

   注は校訂者の松浦玲氏による。


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