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大塩の乱関係論文集目次


「大 坂 の 町 組 与 力・同 心 の 副 収 入

−火事跡検分の礼銀を中心として−」

島野 三千穂

『大塩研究 第26号』1989.7 より転載

◇禁転載◇


  はじめに

 大坂の町組与力・町組同心の副収入については幸田成友、宮本又次の先学による断片的な研究 *1 *2 が発表されているに過ぎません。とりわけ大坂町奉行所は行政司法の二面において広範囲にわたる権能が付与されており *3、摂河播、場合によっては四国中国九州二十八箇国までその管轄とし *4、その執行官としての与力同心に関する史料は大阪を中心としてかなり現存していると推定しますが、この与力同心の実体や特質については余り解明されていないようです。中でも与力同心の副収入(礼銀とか賄賂)は大塩事件の実体をさぐる上にも、特に研究を要する重要な課題と考えます。そこで小論では菊屋町 *5 と木挽町南之町 *6 両文書を中心として、地域を大坂三郷に限定して、町方の失火責任とその経済的負担に焦点をあてる事により、裏腹の関係にある火事跡検分における与力同心の副収入を解明し、併せてその関連職務分課・職掌についても考察します。同時に、与力同心の雨具持人足共(御触及口達文政二年)と、ひとからげに略称されるようなその帯同人も同様分析します。猶、礼銀の贈る側(町方)と受けとる側(権力側)の両者間に介在した可能性のある下宿(公事宿)についても『浪華御役録』(以下『御役録』)との関連で略述し、読者の叱正にまちたいと思います。

  一 江戸の消火体制

 江戸の火消には定火消、大名火消、町火消がありました。定火消は武家火消ともいい主に江戸城の消火と警備を任務としていました。火事場へは旗本である定火消役が与力同心と臥煙(がえん)を従えて出場しました。主な火消役は渡り中間の臥煙で役料で雇われていました *7

 「大名火消は出火の際、江戸の藩邸より出場した火消の事です。そもそも大名に対する課役として設けられたもので、江戸城の重要施設の火の番も勤めました」*8。江戸の町火消は六十四組あり(年代によって差はありますが)火消人足の定員は約壱万 *9 といわれています。町火消は初め武家屋敷の消火は禁じられていましたが、いつとなく武家火消・大名火消(以下侍火消)と打ち交って、どこでも消火する事になりました。町名主の指揮のもとに、「鳶人足は一種独特の気風を持っていました。彼らは侍火消やさらには他の地区の町火消に強い対抗意識をもち、しばしば消火の際、消口をめぐって喧嘩となりました*10」。このような町火消の消火進退を指揮し、侍火消といざこざの起こらぬよう、又勝手に幕府の重要機関に入場せぬよう監督したのが南北町奉行所の分課である町火消人足改の与力同心です。与力三騎同心六人で勤めたようです。*11南北町奉行所の分課に、他に風烈廻り昼夜廻りがありました。風の烈しい時の火災予防や不隠分子の活動を取締るのです。与力二騎同心四人が交替で巡回しました *12。 南北町奉行所とは別に江戸市中を巡回して、火付盗賊、博徒の取締りをつかさどるのが火付盗賊改です。本職は御先手頭の職にある旗本ですので加役と称しました。「火付盗賊改は町奉行所のように捜査逮捕の対象を単に江戸の庶民に限る事なく神宮・僧侶・旗本・御家人に至るまで逮捕できました *13」。

  二 大坂の消火体制

 大坂には江戸の定火消・大名火消に相当するものはありません。町火消のみで大坂三郷町々と大坂城諸施設、蔵屋敷の消火にあたっていました。大坂の町火消を指揮していたのは惣年寄です。惣年寄は天保六年当時で表(一)の如く北組、南組、天満組にわかれて「銘々、居宅をもっていましたが役所にはしていませんでした。すなわち郷ごとに惣会所があり、惣年寄はそこへ集合して事務をとりました。惣会所では惣代が惣会所の用事を万端とりおこないました。惣代の下にこれを補佐する若きものがいました。物書と称して書類の認め方に従事する者もいました。会所守は会所の書類を保管する役で郷ごとに一人 ずついました *14」。彼等は出火の時、惣年寄の命により火消人足を指揮して火事場に駈けつけました。火消人足は五印にわかれていました。文政元年当時、大坂三郷は北・南・天満の三消防区にわけられていました。雨・滝の二印は北組に、井・川の二印は南組に、波印は天満組に属していました(火消人足はおおむね大工又は手伝を常職としていました)。「火消人足の配置、定員は南組の場合、一印につき火消人足六十名です。これを一番手より三番手にわけ、一手の人員二十名ごとに小頭がいました *15」。又、一印ごとに印(しるし)番町というものを定め、その町代を随行させました。さらに一番手ごとに火消年番町というものも定め、その町代を随行させました。「鳶人足が真先に火懸りをし、水の手人足は水を運び、団扇人足は大きな団扇で火事を煽ぎ返しました。水弾人足は喞筒(ソクトウ)(ポンプ)にかかる人足です *16」。

   小 括

 大坂には正規の消防署職員(江戸の定火消に相当)は不在で大名火消もなく、町火消のみでした。つまるところ町役場(三郷惣会所)の嘱託(火消人足)が本業の大工の片手間に消火活動を行っていたといえるでしょう。しかも大坂の唯一の消防署職員ともいえる火事方与力同心は火事場において鎮火で危険に身を挺するよりも、むしろ火事場の警備・火事跡検分を主要な任務としていたように思われます。積極的消火よりも消極的消火の職務の比重が高かったといえます。更に大坂では侍火消と町火消の間の身分上の軋轢は発生しませんから、江戸の町火消人足改のような両者間の紛争解決のための緩衝的職務は不必要でありました。総じていえば大坂は遠国奉行ですから江戸の三奉行(寺社、勘定、町)の機能を兼備していました。従って江戸の火付盗賊改役のような人的地域的権限を調整する機関は大坂にはなかったし、必要ともしなかったようです。

 さて菊屋町文書(以下「菊」と略称)、木挽町南之町文書(以下「木」と略称)等には火事関係与力同心の職務分課が散見します。これらの職務分課を、『御役録』に求めてそれより抽出して、まとめると表(二)になります。

  三 火事跡検分の具体例

 江戸の八百屋お七の例をあげるまでもなく、放火は(幼者と乱心者を除いて)火罪(火焙(ひあぶり)の刑)というタリオ(同害報復)刑でありました。*17 しかも田畑家屋敷家財は欠所で、その者は大坂市中を引き廻されたのです。*18 付加刑を伴ったのです(大坂では火焙のための柴薪は三郷が負担しました *19)。従って小火(ボヤ)でも出そうものならかなり深刻です。出火原因が放火(差火・付火)でなく、失火(手過ち)である事の申し披きを大坂町奉行所(以下御番所と 略称)にする必要がありました。

 具体例(菊一二四−四)

(1)【出火】寛政十一年三月十三日四ツ時半(二十三時頃) 菊屋町の裏借屋(うらかしや)のきせる職人利兵衛は自分居宅と表借屋(おもてかしや)物置との境界より小火(ボヤ)を出してしまいました。

(2)【出火報告】町会所の町代は不在だったのでしょうか (毎月交替の年寄輔佐役の)月行事が雇人足をつかって、 早速、月番(開庁)の御番所に第一報を入れています。

(3)【第一回出頭】出火場所が境界点で出火原因不明のため、裏借屋と表借屋が紛糾したのでしょう。同十三日(字義通り解釈しますと十三日深夜)に、家守(借屋の差配人)、五人組、年寄が火之元(失火責任者)の両人を連れて、月番の御番所に出頭しています。この時裏借屋の家主は出頭していません。おそらく、この借屋が(他国持ですから)他国に家主は在住していたのでしょう。

(4)【出役】翌十四日、出火届を受けた火事方与力(東二騎、西二騎)と火事方同心(東二人、西二人)は菊屋町に出張して来ました。これを出役と申します。月番(開庁)と非番(閉庁)の区別なく、東西が揃って出役する慣わしですが、これを「打込み *20」と申しました。

(5)【火事場検分と吟味】火事方与力同心の検分内容は、出火場所、出火原因、羅災状況、火消人足・自身番・夜番人が駈けつけなかったか、半鐘は打たなかったか等です。しかし放火(差火)の疑ある時には盗賊方御役所へ廻るように指示する場合があったようです(小林家文書コハ五五−一三一)。一町限りの火事の場合はそれで済むのですが、大火ともなりますと、火事場の地理的状況、すなわち御城の大手門より火元へ未申に当り道法は凡十七町斗、難波御蔵よりは北へ道法凡九町斗、木津川御番所よりは東へ道法拾五丁斗といった報告も必要でした(菊一二四−一)。又場合により羅災状況を書かせるため絵師、水縄方を帯同しました(菊二五二−八)。火事方与力同心は検分吟味の上、出火原因を次の如く決定致しました。

(6)【第二回出頭】十四日、町内の火之元、家守、五人組、年寄、丁人自身番、夜番人が御番所に出頭しています。町人自身番というのは町人詰所の番人のことです。その職務内容は、「町内に失火その他異変がないようにと交代で出勤警備することです。よく似たものに夜番人があります。夜番人は太鼓を打って町内を時廻りする番人の事です *21」。四ケ所長吏の支配下にありました *22

(7)【供述書提出】右当事者すべては、口書(供述書)をとられています。しかし内容は不明ですので、(菊一二四−三)より推定して補足しますと、前夜怪しい往来人を見受けなかったこと、火之元の本人が申し上げたことは相違ないことを述べて、口書の奥に署名捺印したようです。

(8)【町目付出役検分】十四日の同日、同心である東西町目付も火事方与力同心とは別に独自の出役検分を行いました。町目付は町奉行に直属して、火事方与力同心の火事跡検分に非違がなかったか、又同時に検分にとりこぼしがなかったかも監察し検証したようです(表(二)参照)。

 表(二)火事関係大坂町奉行所織務分課
分課名東西与力東西同心 職 掌 備 考
寺社役  8  8焼失寺院再建の為の地面検分祐泉寺文書、江戸なら寺社奉行の管掌となろう(建築確認申請に該当)
地方役  7  10焼失町方屋敷板囲認許可菊一二四−一、菊一二四−二、木一三・一五(公道占用許可願に該当)
盗賊役  5盗賊改9
盗賊方御役所定詰方6
火付盗賊検分。放火検分。小林家文書五五−一三一
火事役
牢扶持
  4火事役6 火事跡検分(牢中食用品取締)菊、木、文書
(古事類苑官位部四、六四七頁)
町目付   2与力同心の非違糾弾(町奉行に属する監察役)火事跡検分菊、木、文書
(古事類苑同右)

(9)【裁許場出廷】同日、出火原因がもう一つ不明確のためか、町奉行が直々に吟味する事になり、

と厳重に叱責の裁決が下りました。

(10)【礼銀贈与】さて、礼銀は左の如くです。

(11)【収支報告】「大坂では、町年寄はそれぞれ家業を持っていましたので公務はどうしても町代まかせになっていました。町代は町会所に出勤した時は会所守でした *26」。従って菊屋町の町代の庄七は町入用の受取証と収支報告を正確に残しています。その収支報告をまとめると、表(三)になります。

 表(三) 火事入用収支報告 (菊屋町文書124−4)
  収 入 の 部   支 出 の 部
 内 容 計 算 金 額 内 容 計 算 金 額
 
家主中屋より受取
 
 
銀1両×2人
銀3匁×5人
銀2匁×4人
 
 
 
銭200文×2人  
 
金1両3歩
銀8匁6分
銀15匁
銀8匁
 
 
 
銭400文

銭2貫文
銭2貫190文
火事方与力
火事方同心
惣 代
若き者
小 使
町目付
御 供
 〃
御番所迄人
足雇賃
会所諸入用
下宿入用
金100疋×4騎
南鐐1片×4人
銀1両×2人
銀3匁×2人
銀3匁×2人
南鐐1片×2人
銀3匁×1人
銀2匁×4人
銭200文×2人

銭2貫文
銭2貫190文
金1両
金2歩
銀8匁6分
銀6匁
銀6匁
金1歩
銀3匁
銀8匁
銭400文

銭2貫文
銭2貫190文
 合 計 金1両3歩
銀31匁6分
銭4貫590文
 合 計 金1両3歩
銀31匁6分
銭4貫590文



(12)【礼銀返却】礼銀は町代の庄七が三月廿五日に持参して一件落着かと思われました。ところが三月晦日の事です、町目付とその御供が礼銀を返すといい出しました。

ということになり町目付二人の礼銀は返され、御供五人の内御供四人に対する礼銀も返却され、御供一人だけが内分でその侭もらっておくことになりました。それ故今度は町年寄の清五郎が逆に受取書を出す羽目となりました〔写真も参照 【省略】〕。

猶、返却された礼銀の金壱歩と銀八匁(推定)は家主に そのまま返されたかどうかは不明です。

  四 礼銀について

(1) 礼銀の分析とその推移

 菊屋町と木挽町南之町は隣接しています。そこで一括して両町の火事跡検分の記録を拾ってみる事にしましょう。寛政三(一七九一)年より明治二(一八六九)年迄約七十八年間に両町で三十件の火災が記録されています。但し史料の精粗(イ嘉永二年以降が精しく、ロ文政から天保期が大幅に欠落している)の制約もあり、与力同心とその属吏の礼銀の正確な把握を期する事は充分でありません。ただ趨勢でもわかればと考えて作成したのが表(四)であります。以下箇条書にして分析して行きます。

 表(四) 火事跡・検分における町組与力・同心及び町目付その他属吏の礼銀受取額推移表

    【略】

(イ)火事方与力・同心は文政のはじめ頃から、小火の場合は火事跡検分をせず、町目付が彼らの職務を兼務している。しかし火之元に放火の疑ある時(木四五・木五一)、数町にわたる大火の時(菊二五二−八)はその限りでない。このことは小林家文書でも断片的に確認出来ます。原因は未考ですが天保八年十二月に次の記述があり、その事を暗示しています。

(ロ) 火事方与力同心は火事跡検分には三郷惣会所の属吏である惣代、若き者、小使等を帯同するのが普通であった。ちなみに、庫裏再建願に対し寺社方の与力同心が(普請に付)地面検分した際の帯同人は表(五)となります。盗賊方与力同心の帯同人は、役木戸、長吏方小頭、若き者等である *27 事が判明しています。職務分課により帯同人は相違しており、それぞれ、特徴があったことがわかります。

(ハ) 町目付は常時五人〜七人の御供を帯同していました。その帯同人は大きくわけて、家来、御供、定供、四ケ所手付の四群に分類出来ます。しかも徳川末期に近づくほど帯同人に関する記述は正確となる傾向にあり、火事方与力同心→町目付→町目付帯同人の順に職務分担の降下が推定されます。その事は礼銀の面でも(史科は少いのですが)裏付けられます。弘化四年(木四五)までの礼銀は火事方与力が百疋(壱歩のこと。壱貫文ではない)、町目付が金弐朱(南鐐壱片。弐朱)で火事方与力が町目付の二倍を町方より貰っていました。嘉永五年(木五一)と安政七年(菊二五二−八)では逆転して、町目付が火事方与力の倍額をもらっています。但し町目付のもらう礼銀は金二朱で維新期までかわらないのですから逆に火事方与力同心のもらう礼銀が放火や大火に限られるようになったため減少したとも考えられます。『鐘奇斎近世風聞雑記』*28 の「(文久三年)八月十日大坂天満橋張紙」より町目付に関する史料を引用して詳しい町目付の職務内容は今後の研究に待ちたいと思います。

(2) 礼銀の負担者

 「大坂では町人という時、その町の住人という意味より、もっと狭義に使われていました。狭義の町人はその町に家屋敷を持つ者の事でした *29」。「大坂町人の負担に公役と町役がありました。公役は大坂の町人として納めなければならないもの、つまり御番所や惣会所に関係した入用です。町役はその町の町人として支払わねばならないもので、その一町だけに関係している費用でした *30」。今、火事関係の入用の内、公役と考えられるものを整理すると左のごとくなります。


「役高割というのは、古くは一軒一役であったが、家を分けるときは家数と役数をまし、家を合する時には家数は減っても役数は減らない為発生したものです *32」。顔割というのは顔すなわち町人の頭数によって割りつけることをいいます。他に坪割、間数割があります。ちなみに上段に二町の家数と役数を示します。猶、具体例(三)で示した火元の利兵衛は借家人ですから大坂では町人と呼ばれません。従って、公役とか町役を負担する義務はありませんでした。その代り町内のことについては、一切口を利く権利がなかったのです。表(四)の三十件の火災の火元はすべて借家人と考えられます。それでは火事跡検分における礼銀とか火災の際の町入用はどの階層が負担したのでしょうか。『大阪商業沿革資料上 *33』をみますと、大体の基準がわかります。

右の条文は借家人でも火元になったら負担が必要だというこという考え方が根底にあると考えます。さて三十件の火災より負担の判明しているものを抽出して作成したのが表(六)です。件数は少いですが箇条書にしてまとめます。

 表(六) 火事跡検分における札銀等町入用の割当方法と火之元負担有無
 文 書 No.出火年月日火之元割当方法 備 考
職業負担
菊一二四−四寛政11.3.13借家
きせる職人
なし 全額家主負担
菊一七七
(木一三−一五)
文化13.8.16借家
左官職人
 ?(菊屋町側)
役割
木挽町南之町出火、菊屋町境にて焼止まる。菊屋町町入用掛る。廿六役に割る。
菊二二一文政13.正.13借家
饅頭商売
夜番人五人へ壱貫文顔割
その他
家主より夜番一人に五00文心添、顔十六人に割る。
菊二五二−八安政7.正.10借家
不明
 ?役割久左衛門町より出火の大火。罹災町四町で均等割した後町内で廿五役に割る。
木九九慶応3.6.23 ?
自身番
 ? ?町人入用より出した。


(1) (町人である)家主が全額負担する事がある。
(2) 隣町(木挽町南之町)で火災が発生し、当町(菊屋町)との境で焼けどまったときの当町でかかった町入用は隣町に請求していない。
(3) 火元の借家人が全額でないにしても一部負担する事がある。顔割りにしているのは未考。
(4) 安政七の大火の場合は罹災町四町(布袋町、宗右衛門町、三津寺町、菊屋町)で均等割した後に町で役割している。
総じて、借家人は火元になっても負担は軽く呑気なようにも見受けられます。しかし決して、そうではなく可成り肩身の狭い思いをしたであろう事は次の(木四八)をみればわかります。裏を返せば火事跡検分における礼銀の負担と失火の恐ろしさに町方が耐えかねているのではないでしょうか。

(3)礼銀の受贈場所と『浪華御役録』 *34

 管見によれば大坂の与力同心に対する礼銀をどこで贈与したかの研究史は皆無であると思います。ただ大野正義の「大坂町奉行所与力 *35」に「何の証拠もないが」と断った上、与力の子孫からの聞き書きとして『「提灯下げて大坂市中を一周して帰ると提灯に小判がいっぱいつまっていた……」』とあります。この子孫の方の説によると大坂の与力は出役検分の際、その場で当事者より直接、礼銀 をもらった事になります。はたしてそうでしょうか。私はこれに異をたてます。表(七)によると、大坂の町方の場合、次のような慣わしになっていました。

 表(7) 礼銀の受贈場所
 文 書 年 月 日 受 取 人受贈場所持参人 備  考
菊七六安永9.2.20同心同心宅 ?両家へ納
菊七六安永9.2.20同心御供下宿 ?東下宿伊勢屋喜右衛門
菊一二四−三寛政10.11.16惣会所小使2人小使宅町代 
菊一二四−三寛政10.11.16町目付御供5人御供宅町代礼に回る
菊一二四−四寛政11.3.13 ? ?町代持参相済
菊一七九文化14.1.16 ? ?町代相廻納
菊二二一文政13.正.13 ? ?町代持参
祐泉寺文書天保9.3与力2騎与力自宅町代丁代を礼に回す
祐泉寺文書天保9.3同心2人騎同心自宅町代丁代を礼に回す
菊二五二−二嘉永3.3.5町目付御供 ? ?持参
菊二五二−四安政3.9.25町目付御供 ? ?持参
菊二五二−八安政7.1.10 ? ? ?天満御礼廻り

(A) 礼銀は町代が持参した。町代が町会所宛、礼銀の受取書を書いているのはその任務を遂行したという証明である。
(B)与力同心に対する礼銀は与力同心宅に届けた(祐泉文書、菊七六)。
(C)惣会所小使とか町目付御供には彼等の自宅に届けたが、同心御供には下宿に一括して届けさせたこともあった(菊七六)(下宿は後述)。
与力同心に対する礼銀は与力同心宅に届けられたという事実は、表(七)では史料不足で説得力を欠くかも知れません。そこで本題の火事跡検分とは少しはずれるのですが『十人両替鉄庄記録』*36 で補強します。鉄庄とは鉄屋庄左衛門のことで、北組瓦町壱丁目の両替商でした。寛政八年三月十六日、彼は大坂町奉行所の地方役より十人両替御用を拝命しました。そこで三月十七日より四月朔日までその新任挨拶のため礼銀を(武家の場合でいうと)大坂東西町奉行より同心に至るまで配って歩きました。

 (十人両替鉄庄記録)*32

この時与力は十一騎、同心は十四人自宅で礼銀を受けとっています。しかも礼銀贈与の作法が、受取人の身分によって違いがあり、贈る側の重要な心得事であったことを推測させます(表(八)参照)。鉄庄は服装も受取人の身分に応じてかえています。この記録によりますと、着がえは下宿でしています。下宿というのは江戸の公事宿とか地方の郷宿(ごうやど)に相当します。現代の言葉におきかえれば、弁護士兼旅館業という事になりましょうか。下宿は東西御番所とか代官所とか牢屋の近くにありました。出入物(民事訴訟)のときに訴訟代理をしたり、訴状の代筆をしたり、「納宿といって代官所に貢租を代納したりしました。慶応年間では五十四軒あった」そうです。*37 具体例の菊(一二四−四)では菊屋町は火事跡検分にかかわって二貫百九十文の出費を下宿にしています。表(七)で紹介したように同心御供に対する礼銀も東下宿伊勢屋喜右衛門が代行して受取っています。『十人両替鉄圧記録』では主に下宿として豊島屋(てしまや) **1 と大和屋庄兵衛を主につかっています。この二名は既に『難波津十七』の『浪華御役録』で考証されているように、年頭や八朔に得意先に『御役録』を配りものにした公事宿(下宿)と同一です。『御役録』の裏面に『西御役所付下宿大和屋庄兵衛』とか『東下宿 豊島屋門(紋カ)蔵』の黒印がよく捺してあったそうです。先に紹介した鉄庄が瓦町在住にしては与力同心町の地理にくわしく、女夫池(『御役録』には、めうと池と載っている)まで知っているのはその時『御役録』を携帯していたのでないでしょうか。大坂には町組与力同心の他に城付の与力同心もいたのですが、城付与力の屋敷図が『大坂袖鑑』(九×一五センチ)に一丁載っている程度の小さなもので、『御役録』(二七×三七センチ)記載の町組与力同心屋敷図には全く及びません。しかも、この『御役録』が少なくとも一年に正月と八朔に二回、百年間継続して発刊されたということ *38 は、それなりの需要があった訳で町組与力同心と町人との癒着ぶりが想像されるではありませんか。

 表(八) 十人両替新任挨拶に際しての礼銀贈与作法
受取人受贈場所持参人服装礼銀包紙本紙折敷関与下宿  (公事宿) 備 考
三郷惣年寄惣年寄自宅(名 代)
羽織袴
(切のし付)
三芳杉原
中奉書一枚 にて一六切塗片木(へぎ) にて出ス 名代持参
御肴料
白銀壱両ヅゝ
十三人
与力与力町自宅(鉄 庄)
継上下
(切のし付)
三芳杉原
中奉書一枚にて一六切七寸之白木片木ニ載出ス 御肴料
金弐百疋ヅゝ
地方 六騎
金方 五騎
同心同心町自宅(鉄 庄)
継上下
(切のし付)
三芳杉原
中奉書一枚にて一六切七寸之白木片木ニ載出ス 御肴料
白銀弐両ヅゝ
地方 九人
金方 五人
(金奉行)(月番役宅)(鉄 庄)
(黒紋付小袖麻上下)
 (手札)(鈴木町下宿八百屋常八)目見のみ
上ケものなし
右筆頭役宅玄関(名 代)
袴羽織
 ?
(切のし付)
三芳杉原
中奉書一枚にて一六切
 ?
白木七寸之片木にて 御肴料
白銀弐両ヅゝ
二人
名代持参
両町奉行中ノ口より出ル
同敷台ニ而
(鉄 庄)
黒紋付小袖麻上下
 ?
 中奉書二枚重二重操足金台ニ載ス
右台ニ下ケ札
西下宿大和屋差上物、
惣年寄
下宿へ持参
則内見有之。
金百疋ヅゝ
二人
右家中東西御番所(手 代)
不明
(切のし付)
三芳杉原
 ?
中奉書一枚 一六切
 ?
白木七寸之片木 御肴料
白銀壱両ヅゝ
家老、公用人
等 十五人
手代持参

   おわりに

 史料紹介に終始したが、以上のべたことをまとめてむすびにしたい。

(1) 与力の職務分課名と実際の職務内容は、火事跡検分における町目付に例を見る如く大きく乖離している場合があり『大坂袖鑑』とか『浪華御役録』だけで判断することはその判断を誤まらせる事になるので、関連文書との照合作業が必要である。

(2) 与力の火事役と牢扶持がなぜ同じ職務分課に属するのか未考である。

(3) 職務分課によって、それぞれ帯同人を異にする事が判明した。ただし町方の記録は礼銀を出さない随行人は書き落す可能性がある。祐泉寺文書では与力の随行人として「与力供六人 鎗 若党 草履取」とあって「此供は無礼」と記載がある。注意が必要である。

(4) 火事跡検分の礼銀だけについていうなら礼銀は与力だけでなくさまざまな階層の人々が受取っていることがわかった。

(5) 火事跡検分に関しては文政の初年頃から、火事方与力同心は小火には関与せず、放火とか大火の時のみ関与している。そのかわり同心の町目付とその帯同人が同じ職務を分担している。その原因については後考をまちたい。

(6) 礼銀を町目付とその御供が返却して町年寄の受取書までもらっているのは逆にいえば賄賂としての認識があった事を示しており賄賂と礼銀の違いの分析に役立つがもっと史料の積み重ねが必要である。

(7) 礼銀の贈与には下宿(公事宿)が関与しているふしがある。



*1 幸田成友『大塩平八郎』中公文庫 二五頁
*2 宮本又次『近世大阪の経済と町制』文献出版 一四七−一五四頁
*3 藤木喜一郎「大坂町奉行管下に於ける司法警察組織について」『創立七○周年関西学院大学文学部記念論文集』 八八八頁
*4 三浦周行『法制史之研究』 一○五六頁
*5 大阪市南区(現、中央区)心斎橋筋二丁目。南組にかかわる町方史料を伝来している。大阪府立中之島図書館に古文書寄託。
*6 *5と同じ。
*7 (A)高柳金芳『江戸の下級武士』 九六−九八頁
   (B)笹間良彦『江戸幕府役職集成』 三六二頁
*8 『日本歴史大辞典12』河出書房 七三頁
*9 川崎房五郎『江戸八百八町』  一四七頁
*10『日本の歴史79』「法度と掟」朝日新間社 8−五○頁
*11 笹間良彦『江戸の司法警察事典』
*12 笹間良彦前掲『江戸の司法警察事典』 六五頁
*13 高柳金芳前掲 九八−一○○頁
*14 宮本又次編著『難波大阪』講談社 二二二−二二三頁
*15 『大阪市消防の歴史』大阪市消防局 五四頁
*16 前掲『難波大阪』  二三四頁
*17 大久保治男『江戸の刑法−御定書百箇条』高文堂新書。一二四−一二六頁
*18 石井良助『江戸の刑罰』中公新書 四八頁
*19 『大阪市史第五』  二三六頁
*20 『町奉行所旧記』大阪市史編纂室所蔵本
*21 前掲『難波大阪』 二二四頁
*22 『浪華叢書第十四』「街能噂」 一○八頁
*23 金百疋は「一分」の事。
 (A)「金百疋とは往々祝儀等ニ用ふる称。一分の事。」大阪商業史料集成第三 一二二頁。
 (B)「壱歩金というものひとつを百疋といえり。」「松の落葉」『日本随筆大成22』 一七五頁。村上義光氏の教示。
*24 南鐐 は「二朱銀の異称」
*25 銀壱両は「銀四匁三分」前掲大阪商業史料集成第三、一二二頁
*26 前掲『難波大阪』二二四頁
*27 前掲藤木論文 九○一頁
*28 「鐘奇斎近世風聞雑記」『大阪編年史二四』所載。
*29 前掲『難波大阪』 二二五頁
*30 前掲『難波大阪』 二三三頁
*31 乾宏巳『なにわ 大阪菊屋町』 一一一−一一四頁
*32 前掲『難波大阪』  二三三頁
*33 宮本又次前掲書『近世大阪の経済と町制』  二一一頁
*34 『浪華御役録』大坂の職員録。年頭と八朔の年二回改板された。人事異動が激しく付箋をつけて補っているものがある。前掲書(2)に写真掲載あり。
*35 大野正義『歴史読本』昭和六十三年六月号「大坂町奉行与力」 一七三頁
*36 『大阪商業史料集成第四』「十人両替鉄商記録」 一九七−二六一頁
*37 宮本又次前掲書『近世大阪の経済と町制』 一五七−一五八頁
*38 中川烏江『難波津十七』「浪華御役録」大正十四年六月


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管理人註
**1 「浮世の有様 巻六 大塩の乱」その3に豊島屋門蔵の咄が収録されています。


大塩の乱関係論文集目次

『大塩研究』第26号〜第30号目次

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