加藤咄堂(1870−1949) 『死生観』増補 井冽堂 1906 より
大溝より坂本に至る迄、水程八里許、纜を解き
を結べば、既に未申の際にして、日晴れ浪静なり、柔風只颯々たるのみ、小松近傍に至れば、北風勃起し、湖を囲むの四山各声を飛ばし、狂瀾逆浪或は百千怒馬の陣を衝くが如く、或は敷仭の雪山前に崩るゝか如し、他の舟船皆既に逃れて一も有るなし、其帆を張ること至低三尺強にして、其怒馬に乗り其雪山を踏み、以て直前勇往、箭馳の如きもの只是れ吾が一舟のみ、忽ち鰐津に至る、嘗て聞く鰐津平日風なき時といへども、回淵藍染して、盤渦谷の如くに転じ、巨口大鱗の游泳出没する所、乃ち湖中の至険なり、而るを況んや、風波震激の時をや、篷を推して水面を見れば則ち謂ゆる地裂け天開くの勢をなす奇なる哉、颶風忽ち南北両面より吹いて軋る、故に帆腹表裏饑飽定らず、是を以て舟進んで而して又退き、退いて而して又進む、右に傾けば則ち左に昂り、左に傾けば則ち右に昂り、踊るが如く舞ふが如く、飛沫峻濺篷に入り牀を侵し、実に至危の秋なり、舟子呼んで曰、他舟皆幾を知る故に之を避く、某の如きは独り誤りて前知すること能はず、而して乃ち此に至る吁命なる哉、然りと雖面目の客に対するなきのみと、吾れ其言意を察するに共に魚腹に葬らるゝの患を免れざるに似たり、
事此に至る九死は期すべく、一生は保し難し、平八如何かこれに処せる、
因りて却て舟子を慰喩して、曰く、爾誤りて此に至るは命なり、即ち吾輩の此に至るも亦命なり、倶に之れを如何ともするなし、只天に任せんのみ、何ぞ患ふるに足らんや門生家僮、既に悪酒に酔ふが如く頭痛み、眼眩み、其心覆溺を慮るものゝ如し、而りし雖、実に以て死せりとなす、故に憂悔危懼の念を起さゞる得ず、
これ常情なり、何人か憂悔危懼の念を起さゞらんや、しかも徒らに煩悶苦悩せず、命のみ」となせるまた常流に一頭地を抜くを見る、
是時忽ち藤樹書院に於て作る所の無人致此知の句を憶ひ、心に相語りて曰く、此は即ち其良知を致さゞるの人に責むるなり、而して我即ち憂悔危懼の念を起す、若し自から之れを責めざれば則ち躬を待つこと薄うして而して人を責むること却て厚し、恕にあらざるなり、平生学ぶ所将た何かあると直に良知を呼び起せば、則ち伊川先生の存誠敬の言亦一時に并せて起り来れる、因りて其飄動中に堅坐すること、仍ち伊川陽明二先生に対するが如し、主一無適、我れの我なるを忘る何ぞ況んや狂瀾逆浪をや、敢て心に懸けず、故に憂悔危懼の念は、湯の雪に赴くが如く、直ちに消滅して痕なし、此れより凝然動かず、而して颶風も亦自ら止み、柔風依然として舟を送り、終に坂本の西岸に着く云々
と、これ所謂学問精熟の功にあらずや、彼れは此の如くして死生ら惑はされざるを得たり、想ふに彼れの死生観は学説としては未だ重を為すに足らずと雖、これを実際に応用して知行合一なりしは、他の徒らに其深の理を説て自ら行ふ能はざるものに比して其差幾許ぞ、されば門生皆な其風を慕ひ、終に死生を共にして丁酉の大事を挙ぐるに至りぬ。こゝに一人あり、宇津木矩之丞といふ、近江彦根の人中斎の高弟たり、彼れ久しく長崎に寓し、今や郷に帰らんとして、途、中斎を大坂に省す、嗚呼、これ実に彼が一期の災厄たりしなり、大塩夙に彼れが才幹を知り、告ぐるに密謀を以てし、一方の将たらしめんとす、彼れ其大義名分に背くことを痛諭し、これを止めんとす、大塩聴かず、こゝに於て彼れ一書を僕に托して故里の双親が膝下に呈せしめ、仔細を具し、
種々諌言致し候へ共申出候事、返さぬ氣性故、容易には承知も仕間敷奉存候、乍去此儘見捨帰り候ては武士道不相立、其上斯の如き大望相明し候事故、生きては返し申間敷、乍去荷担仕候得ば第一に御家の御名を穢し忠孝の道に背き、師を見捨てゝは義理立不申、無拠一命を差出し、今夜平八郎始め徒党の者共へ篤と利害を申聞忠孝仁義相立候様仕度奉存候云々
と、彼れの運や窮れり、苦諫其誠を尽したりと雖、終に容るゝ所とならず、血気の士は彼れを以て懦弱なりとし、師に背くの不義漢とし、思慮あるものは彼れの生還を以て事の破るの端なりとし、大井正一郎等刀を提げて彼を厠に擁す、彼れ従容として頭を伸べて白刃を受く、其難に処して名分を誤らず、自若として死に就く、以て彼れが人格を想望するに足るものにあらずや、而してこれ豈に大塩の感化にあらざるを知らんや、彼れは腐儒にあらず。彼は自ら死生の巷に出入して以て其の肝を養ひたりしなり、其門下に宇津木矩之丞を出す、寧ろ異とするに足らざるなり、順逆、事異りと雖、彼の門人の多くは亦彼の挙に死するを以て身を殺して仁を為すものとなしたりしなり、滅ある者を捨てゝ不滅なるものを求めたるものを求めたりしなり。
「大塩中斎の死生観」その2