『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第十 西城造営と駿州の抗議 | ||
西丸留守 居 |
天保戊戌(九年)三月十日、西城、炎上、内外の殿閣悉く燬け、其災を免れたるものは、僅に大手門の櫓、書院番、大番所の櫓、及び太鼓櫓等の数宇に過ぎず。十三日水野忠邦、林肥州等を始めとし、其他の人々に 西城造営の奉行を命せられ、急に土木を興して、新造に着手し、大小各藩に命して、金を献し、之を補助せしめんとするの議あり。而して、駿州は、西城造営に対して、抗議を試み、終に之が為に、勘定奉行の職を罷め、御留守居の閑地に就くに至りぬ。 | |
造営の議 然るべか らず |
西城の炎上と同時に文恭隠君居を本城に移され、急に造営の議有るや、駿州は、勘定奉行として之に反対せり。 彼、以為らく『西城焼かると雖、郛郭に損所無く、要害に欠く無し、隠居は、須らく耐忍して、暫く三の丸城に移られて然るべし。又各藩に令して、金を出さしむるも、一般荒飢の後、民力未だ旧に復せざるは、殆と之に堪ゆべからず。仮へ、彼より之を出さんと請ふとも、之を諭して納めしむるに及はず。倹徳を修めて、以て時機を待たるこそ。人君の盛徳にして、治道の大躰なるべけれ。故に造営の議、然るべからず』と。 水野忠邦と諍論して聴かざりき。終に上旨に忤ふの故を以て、西丸御留守居の閑職に貶せられし也。葢し前将軍、三の丸の狭隘にして、而かも卑湿なるを厭はれ、将軍慎徳公も亦父をして卑湿の地に居らしむるを欲せず。左ればとて、又父子一城を共にすれば、百司混同不便の訴もあり。因て已むを得ず、駿州の職を廃して、前議を用ひらるゝことゝは為りしと云ふ。 | |
抗言 |
駿州が、西城造営に対して、抗議を試みたることは、栗本匏菴の漫録に拠るもの。葢し、之を当時の事情と、駿州の性行とに由て観察すれば、事実疑ふべからず。
当時、飢饉の後、全国の傷痍未た癒えず、物価騰貴、民心堵に安んせず。然るに、今、俄に土木を興し、民力の疲弊を顧みざるか如き、決して盛徳の事と謂ふべからず。而して、駿州が、人の敢て言ふこと能はざる所を言ひ、治道の大躰を引て、抗言
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