Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.6

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その11

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第十一 蠻社の遭厄と駿州
    


天保己亥(十年)十二月十八日、渡辺華山(三宅土佐守の家士)高野瑞皐(市医)刑に処せられぬ。渡辺、通称は登、名は定静、字は子安、又伯登。華山は其号。三州田原の藩士。高野、通称は長英、名は譲、瑞皐は、其号。陸奥胆沢郡水沢駅の人。

二人、小関三英等と西洋の事情を研究し、時事を論じ、終に鳥居忠耀 の誣称する所と為り、終に奇禍を蒙るに至りし也。而して駿州は渡辺高野を罪することに就ては、之に反対したりき

初め、渡辺高野等、紀藩の儒士遠藤謹助と親しく交り、耆老の人々と共に相謀り、一社を創めて尚歯会と号す。

天保戊戌(九年)十月十五日、(即ち会日)高野の門人、内田弥太郎、奥村喜三郎、我日本船の覆没多きを患ひ、西洋の航海術を研究し、之を防ぐべき一器を創製し、名けて経緯機と云ひ、之を尚歯会に出さんとし、高野と共に来りしに、会已に半に散じたりしが、尚廿余人あり、皆其器の精巧なることを称せさるなかりき。

其座に評定所の小吏芳賀市三郎と云ふものあり。窃に一の密議を出して之を衆に示しぬ。即ち是れ荷蘭加比丹より長崎奉行久世伊賀守に呈せし書にして、英吉利『モリソン』、日本の漂民七人を載せ、長崎に至らすして直に浦賀に入るべしとの説なり。芳賀更に語て曰く『此書に対し』水野閣老を始めとし、皆之を議して曰く『文化の初め、露国使節レサノツトに応対せしときの例に凖して、之を 処分し、彼、若し、強て互市を乞ひ、邪教を布んと欲せば、立ところに之を掃攘すべし』と。

幕府の意嚮、打払に決せり』と。渡辺高野等、之を聞き、以為らく『是れ国家の大事なり。英国の富強は、泰西諸国の皆畏る所。之を如何ぞ軽しく之を砲撃して釁端を開くべけんや。且つモリソンは、近世の英傑、久しく亜媽港に居り善く漢籍に熟す。今、有司、外国の事情に暗くして、モリソンを以て船名と為すは、笑ふべし。吾輩、国家の為に上書して微忠を尽さざるべからず』と。是に於て、渡辺は『鴃舌小記』『慎機論』を作り、高野は、『夢物語』を草しぬ。

時に、一向僧順宣と云ふものあり。同志の人々と共に無人島を開拓せんことを謀りしが、同社の中に、花井虎一と云ふ幕府の小吏あり、鳥居部下の小吏小笠原貢蔵と交り善し。小笠原は、鳥居と相謀りて蘭学者流を一網に打尽せんとする折柄なりければ、乃ち花井に説きて曰く『無人島を開拓するものゝ氏名及び其実を自首し、『夢物語』『鴃舌小記』等を著はせしものも皆其党なりと誣告せば、其功に由りて好官を博し得んこと疑ふぺからず』と。

花井、其言を信じ、遂に鳥居に就て、密告して曰く『近来、蠻学盛んに行はれ、天文、地理、以下、医学、器械の類に至るまて、之に従事するもの、甚た尠なからす。藩主には、島津、三宅、旗本には、松平伊賀守、松本内記、下曾根金三郎、江川英龍、羽倉外記、古賀小太郎、藩士には、紀州の遠藤謹助、水戸の立原甚太郎、阿部友之進、大内五左衛門、雲州の望月莵毛、庄司郡平、田原の渡辺登、岸和田の小関三英、及町医高野長英、僧順宣等、皆蠻学を崇信し、国学を蔑侮し、妖言邪説、無用の書を著はして廟議を誹毀し、人心を煽惑し、其害、勝げて言ふべからず。苟も今にして之を禁絶せずば、後必ず大事に及ばん』と。

鳥居之を聞き、心大に喜び、之を水野閣老に告げぬ。時の町奉行大草安房守、乃ち渡辺、高野を捕へ、之を按問せしが、無人島開拓の徒と関繋無きことは明白とは為りたれとも、書を著はして人心を煽動し、且つ公儀を憚からず、不敬に渉ると云ふを以て論せられ、渡辺は、蟄居。高野は、永牢に処せられぬ。

然れとも、鳥居が、渡辺高野を陥れたるは、蘭学者流を撲滅せんとするが如き意見ありしが為に非ず。寧ろ江川英龍を陥れんとするの野心ありしが為めなるのみ。是より先に、幕府は、英国モリソンが軍艦を率ゐて、直に浦賀に来るべしとの説あり、且つ浦賀には、外船の侵入、測る可らざるを以て、海岸防禦の急を感じ、浦賀海岸巡視を鳥居に任じ、豆州韮山代官江川英龍を以て其副役に任じぬ。然るに、鳥居は、陰険の性、江川の能を忌みたれば、初めより其意見を容れずして、之を擯斥し、小笠原をして、其測量に着手せしめぬ。

江川は其測量の孟浪杜撰にして、其法無きを見、高野の門下たる内田弥太郎、奥村喜三郎の二人を招き、更に確実なる測量に着手せしめ、未だ幾干ならずして測量製図完成し、之を幕府に上りしに、幕府は、之を採用し、鳥居の意見を斥けぬ。

是よりして、鳥居は、江川を陥れんとし、其挙動に注目せしが、浦賀測量に就て、江川を輔けたるものは、渡辺高野なりと云ふを聞き、先ず此輩を罪して江川の羽翼を殺ぎ、次第に江川に及ぼし、洋学を排斥すべしと、 決心し、終に無人島の嫌疑より処士横議に渉り、渡辺高野を陥れたりし也。

其後、鳥居が、江川の師たる高島秋帆を陥れたるもの、其関係、異なりと雖、其由て来るもの、遠しと謂はざるべからず。

駿州は、渡辺、高野と深く相識れるものにあらず。然れども、国家の為に忠実なる意見を建て、其禍に罹らんことを悲みぬ

彼は、鳥居の説に反対して曰く『渡辺、高野は、無人島案件と相関せざること、事実判然たれば、之を罰するは不可なり。また彼等は、書を著はして、当世の事を論ずと云ふと雖、苟も志を懐く士人が、国家の為に、議論する、亦何の憚る所かある。若し、時事を論ずるを以て、一概に処士横議なりとして、之を羅織したらんには、志士仁人、皆口を鉗して国家の大事を傍観し、安危の機、目前に逼るあるも、諌議を上るもの無きに至らん。秦の末路、是のみ』と。

彼は、開鎖の見に於て、渡辺高野と相異なる所ありしや否やを知らずと雖も、其意見の公正なる、真に是れ渡辺高野の知己と謂はざるべからず。然れども、駿州の議は、其用ゐる所と為らず、幕府は渡辺高野の二人を罪し、之と同時に『近来売薬等看板などを蘭字にて認め有之も相見候以来は、蘭字にて認め候事無用に致すべし』と達し、また『蠻書翻訳致候品、暦書、医書、天文書等を初め、窮理書の類、其筋取扱ひ候者の外、猥りに世上に流布致さゞる心得にて取扱ひ申すべし』と達し、是よりして、渡辺高野一二達識の士に由て首唱せられたる洋学の 気運茲に一頓、彼を知ることを勉むるものなきに至りぬ。

是れ実に、後来幕府が開鎖の間に処して、一定の見無く、躊躇逡巡、策の出づる所を知らざる一因と為りしことを思へば、蠻社の不幸は、豈独り彼等二人の不幸のみならんや。

 


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