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2001.9.10

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その12

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第十二 天保改革と駿州




町奉行

家斉将軍職に在ること、殆と五十年。天保辛丑(十二年)閏正月を以て薨し、四月家慶(慎徳公)将軍と為る。閣老水野忠邦の威権、是時より内外に行はれ、前将軍の寵臣たる林忠英(肥後守)、水野忠篤、(美濃 守)小納戸頭取美濃部筑州を罷め、始めて、革新の端緒を開きぬ。而して、駿州は、庚子(十一年)の冬、小普請支配と為り、尋て擢てられて、町奉行に任ぜられぬ。(天保辛丑、四月二十八日)

水野忠邦は、文化乙亥(十二年)を以て、寺社奉行と為り、爾来、大阪城代より京都所司代を経て、西丸老中と為り、終に天保甲午(五年)を以て本老中と為り、内政革新に志ありしも、林、水野の威権赫灼にし て、志を得ず。窃に沈忍して其機会を待ち居りしに、天保庚子十二月、宿老の首座松平泉州(乗寛)卒す、始めて、己れ首座し為り、尋て前将軍薨せしかば、水野、漸く其首を擡け、先づ林以下の三人を黜け之を 責罰したりしなり。

而して水野は、林以下三人を責罰したるの当日を以て、黒木書院に於て、諸有司一同へ、左の台意の趣を達しぬ。

    御政事は、歴代の御諚は、いふまてもなく、取分け、享保寛政の御趣意に背かさるやうにと、思召すにより、各厚く心を用ひ仕ふまつるべ し。
又宿老演達の趣、左の如し。
    寛政の度、御初政の際、諸向心得方のこと、厚き御諚の旨は、其折合に置ければ、皆々辨へ居るべきことなれども、年月の移りて、其場所に久しく勤めしも、多からずなりければ、自然に御趣意を遺失せしが、さきさき規定の心付薄く、当座の公務のみ専ら辨あるやうに成行しは、如何のことと思召すなり。今後は、歴代に定められしことは、いふまでもなく、享保寛政の御政事に復すべしとのことなれば、仮令御沙汰のことなりとも、規定に触るゝか、或は道理の穏ならさることは、差控へざるやうとの御諚なれば、実にかしこきことなり。されども、只今まで各行届かず、台慮を安んじ玉はさることは、深く恐懼する所なり。此御趣意みなみな能々承り、享保寛政の折に合せられし書類を熟考し、諸向とも、厚く心を用ひ、従来行ひ来れることなりとも、理に背きしことは、改正し、諸事正しく、上の御為め、第一に計らひ、御心を休めさせらるゝやうに勉励せらるべし。

    附。享保寛政の度をはじめ、毎度合せられしこと、当座のことの如く、承るものなるは、殊に如何のことなり。誠に諸有司の人々は、表さまの模範とも為ることゆゑ、別て厚く心を用ひ、新任のものへも、聊か遺漏なきやう、精々伝達あるべし。』

また当時、水野は、内政改革に就き、上書して建論する所あり。今、其手書と云ふを聞くに、左の如し。
    一。此度御改革に付、諸役所向之儀、旧弊変洗、御取締一際相見候様、無御座候ては、御趣意難相立。命令不行は、国家の御耻辱にて、不容易儀に御座候間、自先頃中、諸役人へ、度々申達候得共、小普請奉行川路三左衛門は、格別励精世話仕候に付、不日奏功候様可相成 候。其外の役々は兎角仕来りに因循仕、十分に委身、改革の気色も更に無御座候に付 尚又此上の心得方左に申上候。

    一。町方之儀、享保は暫差置、先寛政度の通相成候得ば、人情軽薄之風俗を初、万事文華を去、実朴に帰り、金銀融通も互に以信義相便候間、凶年火災等の困厄相重候とも、可也活計も相立候故、上より御世話も薄く有之、武家の面々も猥に商賈に被貪候儀も無之候。然る所、奢靡之類、悉く相禁し、質素の風俗第一に相成候へば、市中衰微いたし、諸国蝟集之大都会には不都合の光景にも相成、諸家人口にも係り可申。御城下はいかにも繁華に致置不申候ては、不相成儀に有之候間、其手心に差畧可仕見込之旨、町奉行共申聞候。右之心取より万端取締向等相調候故、寛裕にのみ相流、下地年来蕩奢に馴居、質素之風尚は不好、小人共之、最初より繁忙を旨と致し、可申なとゝ唱へ、姦猾の下情に合候様之世話候ては、有名無実にて、一日たりとも、御趣意不被行儀、眼前に御座候。享保寛政も第一は驕奢を被禁候義、何れ之ケ条にも顕然仕候。百年五十年以前より、既に其弊は有之、まして文政以来の風習、澆漓之極に、御座候間、此度之機会にて、挽回一洗仕候へば、都て世上にも面目を改め候間、又三四十年は可成、持守可申哉に付、たとひ御城下衰態を極め、今日之家職難相立、商人共離散仕候共、聊不頓着、淳朴之号行届候はゞ、両三年も相立候へば、自然と程能名分も相立可申候。尤如此繁華の地故、中々究乏候程之義は、決して無御座候得共、右程の見込に無之候ては、迚ても、済世の御趣意は不行届儀に御座候。

    一。御作事方、御普請方、御納戸、御賄所、御細工所、何れも御入用の場所に候処、前件町奉行同様にて、奉行頭とも只々下方気受をのみ 兼居、御為筋は、次に相成、因循苟且の挙動難免事に御座候。既に風聞書等、度々相下候得共、毎度取成躰之儀のみ申聞候間、御取締之義は、未た見居付不申候。

    右之通にて御普請方之外は、何れも不束千万の心得に、御座候。たとへば、宿痾の胞腹に、凝滞仕、一圓快癒の兆無之姿に付、一旦烏頭大黄之激剤不申候ては、迚ても功験難得候間、今、一応厳しく申諭し、若し此上奉行頭とも不進之者之候はゞ、速に御人撰にて、御入替にも相成候様仕度。此所、篤と伺置き、右之威権を含居り、相諭候はゞ、際立相成様可相成哉と奉存候に付、此段、御内慮奉伺候事。

亦以て水野の、内政改革に過鋭にして、眼中、人無きの模様を想見すべし。水野の、内政改革を実行せんとするや、真田幸貫(松代侯)の老中たる、堀田正睦(又正篤佐倉侯)の老中たる、太田資始(又道醇備後守)松平忠固(又忠優伊賀守)間部正弘(伊勢守)間部詮勝(下総守)の寺社奉行たる、遠山景元(左衛門尉)の町奉行たる、土岐朝旨(丹波守)の勘定奉行たる、川路聖謨の小普請奉行た る、岡本成(近江守、花号と号す)の勘定吟味役たる、羽倉羽用九(通称は外記字は士乾、簡堂と号す)の御納戸頭勘定吟味役たる、皆其人を得たりと称せらる。

而して、駿州、亦実に改革に欠くべからざる人才なりしを以て、町奉行の重職に抜擢せられぬ。

 



同僚反対
部下反対
然れとも、水野は自ら用うるの才ありて、人を用うるの量無く、其初政や、其同僚之を奨励し、部下之を賛成し、上下一致、以て改革の端を開き、一時天下の心目を洗初したりしと雖、小人を信して賢才を黜け、苛察の政を主とせしより、其同僚之に反対し、其部下之に反対しぬ。

即ち、太田は寺社奉行より大阪城代と為り(天保辛丑十二年十一月廿二日)間部も、水野と善からすして去り、堀田は、天保癸卯(十四年)九月九日加判列を罷められて溜間詰格と為り、真田、口を緘し、其僅に水野の為に股肱の力を竭せしものは、堀親寳(大和守、天保辛丑七月朔日、側用人と為り譜代席に命せらる。即ち水野の妹婿。水野の挙くる所の人物はたゞ此一人のみなりき。)のみ水野が、識者の論に容れられざりしは、独り其忌刻の才あるか為めのみならず、其政は、大躰に暗くして、小事に察なるにありき。

依田百川の『堀田正睦公事蹟』に云く、

    忠邦は、老中の首席と為りて、威権肩を並ぶるものなく、大に庶政の宿弊を鼇革し、寛政年中、松平越中守定信が法を摸し、事舞に寛政度を唱へ、専ら節倹を行ふ。然るに、忠邦、苛察にして、大躰に暗く、政令動もすれば瑣屑にして、奸吏之に乗じ、害を為すこと少なからず、市民は美衣美食を禁じ、或は美服を奪ひて、之を毀ちすて、或は瑁【王毒】の櫛笄を禁じ、之を犯して鬻くものあるときは、尽く之を収め、其商人の眼前に於て、之を撃ち砕くなどの類是なり。然れども商人等は窃に吏士に賄を贈るときは、其十分一を毀ちて、其余を返し与へ、賄を納れさるものは、尽く之を毀つのみならず、隠匿する由を責めて其商人を獄に下すもあり。其瑣細なるに至ては、錦画草子と云ふものゝ、美麗に絵どりたるを禁じ、之を犯すものは、其板木を聚めて、大なる斧をもて、市尹の庁前に於て、之を裂く。其余出版の事なんどにつきて、禁を犯して、或は手錠に苦しむもあり。

    或は入獄せらるゝも多し。此等も皆賄賂をもて、其罪を軽重することあれども、吏士等之を秘密にして、形躰をあらわすこと無けれは、忠邦も之を知らず。

    堀田公は、もとより、寛大の性質にておはしけるにぞ、始めは忠邦の改革に鋭意なるを見て、大に喜び、其議を賛襄せられしかば、次第に其勢増長し、底止する所を知らず。下民の怨恨日に甚しきよしを聞き給ふ、折節につき之を難せられしかば、公を脅かして其意に従はしめんとせしにや、こゝに一場の事出来にけり。

    天保十四年某の月にやありけん、水野家の儒臣、片桐要助と云ふもの、窃に申すべき事ありとて、公が儒臣渋井平左衛門達徳のもとに訪ひ来にけり。要助と達徳とは、かねて親しき中なりければ、閑室に迎へて其いふよしをきくに、要助言をひそめて、堀田殿の明敏は、我主君のかねて称せられし所にして、これが為に、顕職には推任せられしなり。然るに、この頃改革の政令しばしば下るに及び、愚民は新政を喜はす、囂々として之を誹謗す。下民の愚は、いふに足らねとも、同僚のうちにも新政をよからぬよしいふものありと、申も少からず。もし殿にもさるともからに同意し給はゞ、ゆゝしき大事と覚ゆ、まことにこれあらば、殿の進退にもかゝらせ給ふまじきにも候はず、よくよく心得させ給ふべしとありければ、達徳大に驚きそのよしを公に告げけるに、公、そはもとより覚悟の事なり。今さら驚くべ きに非ず。さらば、これ我退くべき時至れるなり。今は、猶予すべからず、すみやかに職を辞せむと、これを老臣渡辺治に意見を問ひ給ひしが。斯て、この年(十四年)四月、日光社参あり。まれなる大儀にして、都鄙ともに盛挙といはざるものなかりき。公は老中をもて、その供奉たれば、一生の名誉これに過ぎずと喜び賜ひしが、かねて誤り給ひしごとく、事終はりてのち、即ち病と称して出仕を停められしが、同しき九月九日加判列を罷められたり。されど別格の待遇をもて、澑間詰格と為る。』

以て水野の才を容れざることを窺ひ知るべし。
 



霹靂の手

都城百里
敢不欺
駿州は、水野の主義と相合せざる所ありと雖、其町奉行たるや、驕奢を禁じ、姦商を抑え、惰風汚俗を矯正し、市政の面目を革新せんとせり。葢し、水野が改革の初めに於て、光明森厳、雄断果決、一世の耳目を聳動したるは、駿州か、霹靂の手を以て社会の風気を根本より打破したるに由るもの、尠なしと為さゞりき。東湖の詩中に『忽逢辛丑百廃興。貢公弾冠事不違。幡然起拝市尹命。満城姦商悚然【心不】。』と云ひ、『巫祝焉得倡左道。俳優不許演淫戯。風化速於置郵命。都城百里敢不欺』と云ふは、此事実を指す也。

然れども、駿州の明智敏断は、群小の最とも畏るゝ所。而して水野も亦其才を憚かり、之が才を尽さしめざりしは、天保改革の成らざる所以にてありき。

 
 


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