Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.17

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その14

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第十四 町奉行と駿州




三奉行中
に於て町
奉行を重
しとす

余、曾て之を栗本匏菴に聞く、曰く『徳川氏の時に当り、撰はれて三奉行(寺社、勘定、町奉行)に列するものは、必ずしも学者にあらずと雖、大抵才幹あり経験ありて、事務に老練に、儕輩に卓出する人物にてありき。

盖し此の如く其撰を重んじたるものは、天下の煩に耐へ、時務の劇に処し、綽々余裕ある人にあらざれば、往々其職を曠うするを以てなり。

而して三奉行中に於て、最とも町奉行の任を重しとせり。

町奉行の職たる、民政を専らにすと雖、断獄警察を兼ね、且つ機務参賛の事に預かり、老中若年寄にて、決し難き機務には、必ず之に列して、意見を述ぶるを得。今日を以て、仮りに之を譬ふれば、東京府知事にして、検事総長と、警視総監とを兼ね、加ふるに国務大臣たるか如し。

左れば、其職に服する廿年の久しきに亘れば、定規、必らず世禄千石を加増するの栄あり

吾か聞く処を以てすれば、享保に、大岡越前守は別段功を以て一万石に封ぜられ、若年寄に任ぜられ、又吾が見る処を以てすれば、筒井肥前守は、現に服職二十年に満るを以て一千石の加増を得たる。其他、根岸肥前守と云ひ、大草能登守と云ひ、遠山 左衛門尉と云ひ、往々名誉の人を出せり。』と。

駿州の町奉行たる、僅に八ケ月に過ぎず、随て大に其技量を展ぶることを得ざりしと雖、天保の初政に於る革新の端を開きたるは、駿州に多しとする所無き能はざりき。

    駿州の町奉行たりしとき、紺屋町の紺屋職に瓶五郎と云ふものあり。其妻、同じ町内の春庵と云へる医師と道ならぬ契を重ね、何時しか此事良人瓶五郎の耳にまで入りければ、直に彼妻を放逐し、尚春庵に語て曰く『今回の事に就ては、今更、君に兎や角云ひたりとて、詮なき事なれば、何事をも申すまじけれども、早や妻を追出したれば、御身も此処より外の町に移らるれは、改めて彼を娶るも、吾は咎めず。今迄の通り同じ町内にては、吾も愈よ耻かしく、下男婢女の思はくも浅間しゝ、また御身とても、此処より隔りたる所にて、彼の女と暮らし、玉はゞ、其処にては、是迄の事、知りたるものもなく、却て心やすかるべし』と。

    理を尽して言ひければ、面皮の厚き春庵も、瓶五郎が、寛大なるを謝し、近き内に他所に移るべしと誓ひぬ。

    然るに、春庵、月日を閲するも、約束の如く、他の町へ移るべき気色なきのみか、彼の瓶五郎の妻なりし女を迎え入れて、紺屋の家とは、幾町もなき処にてこれ見よかしに、朝夕酒くみかはし、戯れ居たりければ、瓶五郎も余りの不実を憤り、移転の催促数度に及ぶも、少しも聞入るべくもあらざりき。

    瓶五郎遂に訴状を南の町奉行に上りて、駿州の裁断を仰ぎぬ。

    駿州其訴状を見て、やがて春庵を呼出し、『汝、瓶五郎の恩義に背き、却て耻辱を与へんとすること、甚だ不届なり』と糺せば、春庵只管頭を低れて、『仰はさる事なるか、毛頭約束に違ふ意には之無く、さなきだに、手薄き世帯の、引移るべき手当無ければ、心ならずも、手間どり候なり』と答へぬ。

    駿州之を聞き、『春庵、汝は、朝夕、其女と酒くらひ居る由なるが、酒を買ふ錢あらば、物を估りても転居はなるべし。また、汝が、只今着たる衣は、悉く価廉からぬ物にあらずや。其衣を求むるの資はありながら、移転の手当に、事を欠くと云ふか如何々々』問とひしに、春庵大に周章し『いや、此は損料借りの衣服にて、家には鍋釜の外に、耻かしながら財物とては候はず、幾重にも御憐察を乞ふ』と故らに、哀れけに答へぬ。

    駿州、『さらば 汝、全く引移るべき手当に窮したりと云ふか、此上は、是非もなし。当奉行所よりそれだけの費用は、取らすべき程に、暫く控へ居れよ、其金だに受取りつらんには、早々移り去るべしとて、白洲を退きぬ。

    春庵待つこと之を久うして、日の暮るゝ頃、再び白洲に呼入られて、銭四五十貫を渡されたれば、心の中に思はぬ得つきたりと打悦びつゝ紺屋町の家に帰れば、町役人一人、役提灯を提げたるまゝ、門口に立ち居りけり。春庵、こは何事ぞと尋ぬれば、役人、御身はや、此家へ入ることは、叶はじ、先程町奉行の同心来りて、家財を改められ、家主春庵、今日奉行職の目の前にて、家には鍋釜より外無しと申立てたれば、余財は、すべて、春庵が物ならずとて、一切封印を付けられ、吾等は、番人と為りて、最前より此処に立ち居るなれば、其鍋釜だけを提げて何処へなり立去るべしと云ふ。

    春庵茫然として顔色土の如く、僅に四五十貫文を得て、残りなく家財を没収せられぬ。

    市民、之を聞き、皆駿州の裁決の快よきを賞せざるものなかりき。』

 



幕府衰亡
の機
是れ一瑣事に過ぎずと雖、亦以て駿州が、敏活の手腕如何を推知すべき也。

駿州は、町奉行として、公直にして機敏、厳明にして円妙。実に絶世の手腕を具せる民政家なりき。

而して、駿州は、剛直なるの故を以て、却て罪を獲、餓死の惨を買ひたるもの、是れ豈幕府衰亡の機を冥冥の中に兆したるにあらざるなきを知らん哉。

余、亦、之を匏菴に聞く、曰く

『町奉行の職に当りし人は、始祖三州に在るの日、大賀源五郎を除くの外、罪を得て刑辟に処せられたる者は、聴きも及ばざる所な りしが、吾二十歳前後、天保弘化の際、纔かに三四年間に、矢部駿河守、鳥居甲斐守と両人の町奉行引続きて、禁錮改易の刑に処せられたるは、実に希代の珍事にして、独り受刑者の不幸のみならず、当事者も亦不幸と謂はざるを得ず。葢し徳川氏二百余年の政、茲に至り、綱紀始めて弛び、人心始めて離るゝの兆を為したり』と。

実に至言なる哉。

 
 


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