『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第十五 経済家としての駿州 | ||
財政改革 の意見 |
大蔵大臣、即ち勘定奉行としての駿州は、第一着に、丙申の飢饉に際し、米価下落の策を以て、一時を救済せり。而して、彼は町奉行と為りし後も、亦眼を国家経済の上に注ぎ、財政の根本を改革して物価騰貴の弊を矯正せんとせり。幕府の財政、窮蹙し来りしこと、一日の故にあらず。 文化の末年、有金高、凡そ六十五万八百六十余両に過ぎずして、之を寛政の有金高に比すれば、四十二万八千九百両を減せり。 文政戊寅(元年)二月廿九日、水野忠成(羽州)勝手掛と為り、会計の権を握りしより、初めて新に貳分判を鋳り、続きて、小判分判丁銀小玉銀の改鋳。四文銭の増鋳あり。又南鐐銀の量目を減じて改鋳し、益す鋳りて益す劣に。愈よ改めて愈よ悪。彼は、改鋳の以て一時の急を救ふ所以を知て、百年の禍を醸すことを顧みず。文政より天保に及び、天変地妖並に臻り、物価騰貴、国家経済の前途、寒心に堪へざるものありき。
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悪金銀停 止奢侈矯 正の意見 |
駿州の、町奉行たるや、財政の前途に慮かり、物価騰貴の弊を矯正せんとせり。而して彼は、物価騰貴の原因を以て、金銀の劣悪。奢侈の膨張に帰し、悪金銀を停廃し。奢侈の弊風を打破し。以て財政の根本を改革し、国家富強の基を建てんとせり。 『見聞随筆』に云く、
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経済の大 体に通ず |
当時、水野忠邦の徒、奸商退治を以て、唯一の財政策と暴信するに反して、駿州が、悪金銀停止の議を主張せしが如き、真に能く経済の大躰に通ずるものと謂はざるを得ず。 また云く、
近年物価の貴き所以は、奢侈甚しく、金銀あしきが、其根本なり。其枝葉は、あまたあれども、某が、知る所を以て、論ずるに、諸侯の国にて、産物と号し、大阪問屋に拘らず、江戸に運漕して、売捌く也。其申立を聞くに、江戸物価高きは、畢竟、大阪と江戸問屋に利を占らるゝ故なり。 今、国産を其国々より直に江戸へ出し、大阪の問屋に占らるゝ程を折て、江戸にて売捌んには、万人の益。殊には、江戸の諸品も、是が為に、価を折ん者をと、勘定所等へ内訴する故。いかさまさもあるべき理と同じて、其請に任せ、今は、五畿内、中国西国の諸侯それそれ、其国産を江戸へ出す事になりたり。さらば、江戸の諸色、古よりは、下直なるべきに、却て年々に騰貴し、たとへば、古へは百文にて買たる茶碗鉢も、今は、二百も三百文にもなりたり。 此等をつらつら、考ふるに、大阪問屋にては、最初は、国の産物を引受け、たとへば、十箇国より十品を取次せば、一品より銀一匁づゝ口銭を取りたるが、今は、五品は、江戸へ直に出して問屋にあつからざる故、問屋の株は、半減になりたり。依て、今は、五品より、銀二匁づゝ取りて、古へと同じくらしを為す事になりたり。 されば、大阪より運送する品は、既に其本価一倍になりたる故。江戸問屋も又之に凖じ、価をつけて売買する故。漸々に、其価騰貴せり。 扨、諸侯の国産も、最初は、大阪問屋の品を見くらべ、下直に売捌けども、江戸の銀相場銀一匁に売る品を八分に売るも、無益に思ひ、九分か、九分五厘に売ることに為りたれば、其本に立かへりて、論ずれば、大阪問屋をせばむる程、江戸の物価高くなり。江戸の物価、高くなれば、諸侯の国産は、又これが為に騰貴する理にて、笑ふべき事なり。 且つ悪金銀の事に至りては、上方銀相場に拘り、以ての外よろしからず。然れども嫌疑ありて、容易に論し難しといへり。』 | |
大局面を 通観す 政振整の 意見行は れず |
其眼光の、大局面を通観するを知るべし。 水野は、奢侈の矯正、勤倹の奨励に就いては、駿州の意見を実行せり、然れども、経済上に於ては、駿州の抜本策を実行せざりければ、財政振整の実。挙からず。随て其勤倹の実行も、一時に過ぎざりき。他無し、水野は、大局を通観するの明なかりしのみ。此点に於ては、駿州の意見、俗流政治家を抜くこと数等なりと謂はざるべからず。 而して、駿州は、独り其意見の行はれざりしのみならず、却て奇禍を以て酬ひられたるもの、実に不幸なりと謂ふべし。
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