『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第十七 最後 | ||
餓死終同 亜夫憤 |
『寧赴湘流葬魚腹。耻為楚囚老天涯。餓死終同亜夫憤。英魂漂泊去何之』とは、嗚呼、是れ、千古の至冤を呑みて勢州桑名に憤死したる駿州の心事を写し尽したるの句にあらずや。 天保壬寅三月廿二日、駿州は評定所に呼出され、大目附役初鹿野信政(美濃守)より桑名城主松平和之進へ御預と為るべき旨を申渡され、其席より直ちに市谷なる中屋敷に引渡され、幽居するや、歌を賦して 曰く、
吾が影さへに逢はて過きぬる 尋て、駿州桑名に移さるゝ途上、木曽路なる妻篭を過ぎり、端無くも妻子の事に思ひ到り、感慨に堪ず。
吾が妻や子は如何あるらん 其桑名に着し、楽翁侯の居殿を幽居と為すや、一日、懐を述へて曰く、
憂きは此の身のいや積るとも 警護の武士が、江戸に帰るとき、妻子に斯く伝へよとて、
謹しむのみを手向にはせよ 駿州の室、また身上に思ひ到らざるを得す。
初音聞かせよ山ほとときす 駿州、桑名に幽せられてよりは、調度飲食の待遇も、疎かならざれども、故らに穀を避けて食はず、上下着けたるまゝ、夜には床の柱に倚り、昼は、両手を膝に突きて、身動もせされば、顔色憔悴、眼光のみ爛爛として人を射り、早や此世の限りと見えぬ。松平家は、大に驚き、急飛脚を立てゝ之を江戸に報し、将軍家よりも奥医師中川道玄を遣はして、養生の事、何くれとなく、心付けたれとも、駿州、薬を斥けて一切飲まず。終に食を絶ちて死しぬ。実に天保壬寅七月二十四日なりき。幽囚中、一の逸話有り。
某、かゝる罪被ふりしことは、いかなることか、我身には、覚えしこともあらず。尤もその節の仰渡されには、町奉行に任ぜられざる前に、御政事を批議したりとのことなれど、果して、さることのあらんには、栄転すべき筈もなければ、それにて、其事の有無は、察し玉ふべし。たゞ某が身にとり、あしかりしと思ふこと、一事あり。これとても、允許を得て、計らいしことなれば、上に対したることにはあらず。 大阪町奉行を勤むる折に、処分せし罪人の内に、一人死罪に伺ひ、其ものへ、宣告せしに、罪人いへるは、某、悪事ありといへども、死刑に行はるべきほどのことにあらず。遠流に処せられんには甘んじて罪に服すべけれど、死刑とありては、承り難しと抗言するを、某、叱り付け強て宣告せしに、彼、怨めしげなる気色にて、さてさて、無慈悲なる御奉行かなとて、我を睨視して死に就きたり。後によくよく、考ふるに、其罪は、遠流にても、然るべきにと心付きたれども、其折は、彼が強情を憎みて、死刑に行ひしかと、追て、愍然に思ひ、其追薦をも営みたりき。されど、三月廿二日は、右の罪人を死刑に行ひし日にて、某が罪被ふりしも同じく三月廿二日なれば、全く彼が一念と悟り、聊か上を恨み奉ることはあらす。但し、外に恨むべきもの三人あり。 其三人は、水野越前守、鳥居甲斐守、榊原主計頭、是れなり。此人々の末路を見届け玉はるべし。此事、頼み参らするなりと云ひしが、其後は、粒を絶ち、凡そ三十余日を経て没したりとぞ。』 | |
嗚々咽々 健気人に 逼る |
嗚嗚咽咽、鬼気、人に逼るを覚ゆ。人、或は、駿州の死に臨みて婦人女子の状を為すかと疑ふも知るべか
らずと雖、七たび人間に生して国賊を滅さんとは、楠公の感を同うする処。駿州の、憤り、此三人に発する、豈怪むに足らん哉。 駿州を黜けたる水野は、天保癸卯(十四年)閏九月十三日、其職を免し、『ふるいしや、瓦とびこむ水のをと』てふ怨を以て、酬ゐられ、弘化甲辰再任、程無く再び其職を免ぜられ。(弘化乙巳正月廿二日)駿州を陥れたる、鳥居も、同時に、相良遠江守に預けと為り、『金比羅えいらぬ鳥居を納めけり』と世人より謡はれ、榊原も弘化甲辰九月廿二日を以て其職を免ぜられぬ。 而して、駿州の養子鶴松が、新に召し出されて、家名を再興するに至りたるは、実に弘化乙巳の正月二十二日にてありき。 嗚呼天道是耶非耶。抑も亦駿州の英霊、天に徹する所ある耶。 駿州、絶命の歌に曰く、
立うき今朝の旅ころもかな
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