駿州は、三上侯遠藤胤統(但馬守)とは、極めて親密の交を為しぬ。
遠藤の、曾て玉造口の加番として、大阪城に在りしや、駿州之と親善なるを以て、公暇、屡ば、過ぎて之を訪ひ、遠藤も亦遠地に心友を得たる喜び、互に肝胆を披瀝して隠すことなかりき。
一日、駿州、遠藤を訪ひ、談話の際、侯家に出入せる刀商来り、遠藤が、兼て申し置きたる副刀の製粧成りしを報して持ち来りぬ。駿州、一見を請ひ、其刀の善美を称して已まず、且つ曰く『奉行の職たる、重罪険悪のものに、咫尺間に対して、鞠問することなれば、万一原田甲斐の如き不逞の兇徒あり、窃に匕首を懐にして、不測を謀るものなきを必し難し。此時、侍臣の佩刀を持つもの、隔てゝ後坐に在り、頼む処は、たゞ副刀あるのみ。左れば、副刀は、力めて名匠の作を佩び、不虞に備へざるべからず、然るに、小禄の輩、之を知らざるにあらざるも、或は辨すること能はず。常に以て憾と為す』と。
遠藤之を聞き、如何にも然らんとて、直に其刀を挙て、駿州に贈られければ、駿州痛く其失言を愧ぢ、辞拒再三、終に屈して納めたりとぞ。
又一日、駿州、遠藤を訪ひ、之に問て曰く『我が職たる、人の罪を鞠するの法は、稍や得る所あるを覚ゆれども、若し己れ疑罪を得て、鞠問せらるゝに当りて、如何心得べきやを知らず。必ず実を述べて隠さず、再に至り、三に至るも屈せざるべきや』と。
遠藤之に応じて曰く『我も公も同様疑罪を被るの日は不幸の至と云ふべし。左るからには、一問には、必ず情を尽して述ぶべけれども、再三に至れば、上の不明を証するの恐れなき能はざれば、己を枉て、服従すること、是れ臣子の道なるべしと、我は悟り居れり』と。
駿州、大に其理に服し、『甚た然り』と答へぬ、遠藤老後、常に其嗣子東胤城に語り、『後年に至り、果して其言を守りて』違はざりしは、如何にも正道なる人なり』と云へり。
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