『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第十九 東湖と駿州 | ||
韓淮陰寇 莱公の流 |
藤田東湖、曾て川路左衛門尉を訪ひ、当世の人物を問ひしに、川路曰く『君、未だ矢部駿州を識らざるか』斯人や、智謀余ありて、決断流るゝが如し。韓淮陰の流にあらざれば、寇莱公の亜也』と。而して東湖が駿州を訪ひ、之と議論を上下したるは、天保辛丑九月の事にして、実に駿州が、町奉行たりし時に在りと云ふ。
と詠じ給ひけるゆゑ、余、江戸の御同朋山方運阿彌へ、一書を裁しけるは、矢部の高名、兼て君公にも御聞及びあられけるが、今度転役の由、十分には、思召さねど、少しく御安堵遊されたり。これは、春の御歌とて、よませられ、御内輪より矢部につかはされ度き思召なり。よきに取計らへぞ申と送りける。 又以て駿州の、烈公東湖の為に推重せられたるを知るべし。 | |
意気精神 相激射 |
両雄の意気精神、相激射する処、亦見るべし。
其哀慟に堪へざるの情亦想見すべし。 | |
七言古風 八十韻 |
喜而不寐賦七言古風八十韻以代祭文
憶昔南郭相逢時。 一見如故肝胆披。 劇談未半日易落。 巨燭見跋夜忘帰。 聞説使君少年日。 侠名早己都下馳。 都下紀綱時不粛。 博徒横行盈街逵。」 巨魁潜託貴人第。 官吏畏禍不敢治。 使君新受追捕命。 陰謀秘計応機施。」 迅雷誰能暇掩耳。 狡賊就捕日累々 一朝擢為堺浦尹。 父老歓欣待路岐。」 吁嗟令郎何太長。 (駿州之先子、亦甞為堺浦尹、時駿州尚総角、従先子在任云) 刮目共恨発令遅。 時有甲乙兄弟獄。 積年不決至今茲。 使君下輿直推問。 僚吏聞之竊相嗤。 甲曰某父唯一子、 郷党隣里所熟知。」 可憎彼漢称某弟。 強顔巧辞欲貪貲。 乙曰某母本娼妓。 某係先人遺腹児。」 親戚皆嫌所生賎。 母子放逐久流離。 甲乙堅執共不屈。 官庁幾年信且疑」。 使君明智既洞察。 欲諭甲乙涕先垂。 曰我不幸無昆弟。 単身孤独有誰裨。」 毎見他人華萼盛。 従顧形影羨且悲。 父子従来同一気。 兄弟自古比連枝。」 今汝甲乙豈匪人。 罵弟譏兄事太奇。 縦令博愛無及物。 寧忍相逢不忸怩。」 愧我無徳化汝輩。 汝慎聴我唱歌詞。 歌詞藹然声悽愴。 満腔至誠感【馬矣】癡。」 甲乙叩頭称兄弟。 相抱悲歓泣前
維新の後、矢部氏の後、家道零落し、其遺物を売る。新潟県の農某、曾て芝の骨董店に於て、烈公の歌を書したる短冊を視。之を購はんと欲し、其価を問ひしに主人『是れ預り物なれば、後より答へん』と云ふ。某氏乃ち旅寓に帰りしに、幾もなく、某氏を訪ふものあり。前の短冊を出して曰く『是れ余が先子の、烈公より賜はりたるもの今や、一家衰微して一貧洗ふが如し。願くは卿の之を購ひ以て余輩を救はれんことを』と。其人は即ち矢部氏の嗣也。某氏、乃ち金若干を出して、之を購ひ、之を珍蔵せりと云ふ。
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