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2001.10.11

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その19

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第十九 東湖と駿州

韓淮陰寇
莱公の流

藤田東湖、曾て川路左衛門尉を訪ひ、当世の人物を問ひしに、川路曰く『君、未だ矢部駿州を識らざるか』斯人や、智謀余ありて、決断流るゝが如し。韓淮陰の流にあらざれば、寇莱公の亜也』と。而して東湖が駿州を訪ひ、之と議論を上下したるは、天保辛丑九月の事にして、実に駿州が、町奉行たりし時に在りと云ふ。

初め水戸烈公、駿州の人物を聞き、常に其の才を称嘆せしが、天保戊戌の春、駿州、勘定奉行の職を罷め、御留守居と為りしより、深く之を惜みけるに、庚子の冬、小普請支配と為りしを以て、春の歌を詠じ之を駿州に贈りけり。

『見聞随筆』に曰く、

    『庚子の冬、矢部、小普請支配と為る。我黄門公、兼て矢部が落職を惜み給ひたるが、小普請支配に転じたるを喜ばせ給ひて、彪にのたまふ、寡人、春の歌を駿州へ贈らんと思ふなり、されども、是まで、屋形へ出入もせざる人に、唐突に贈るも如何なり。汝、よきに計らへとの御事にて、御短冊をぞ下されける。拝し見るに、

      鴬の木ずたふ声の春なるは、
        また立かへる春のしるしか

    と詠じ給ひけるゆゑ、余、江戸の御同朋山方運阿彌へ、一書を裁しけるは、矢部の高名、兼て君公にも御聞及びあられけるが、今度転役の由、十分には、思召さねど、少しく御安堵遊されたり。これは、春の御歌とて、よませられ、御内輪より矢部につかはされ度き思召なり。よきに取計らへぞ申と送りける。

    運阿彌、とりあへず、矢部が、下谷の宅へ推参して、余が書を示し、よりて、公の御短冊をいだしければ、矢部、公の厚意を感じ、追て、運阿彌へ一書を贈りて、是を謝し奉る。

    其大意、又立帰るとの御歌、拙者身にとり、何と御請可申上や、心中推察の上、宜しく頼み入るとの文なり。

    矢部もさすがに能くは云ひ廻したり。さて、其時、運阿彌よりの来書に、矢部へ参りたるに其日は、始て対客の日にて、小普請組宅中に群集せり、某は、座敷内似ありて、知らざりしが、追々僕従の申すを聞くに、矢部の玄関にて、一人の旗本、衆大小を取上げ、網のり物に入り、足軽躰のものゝ護送して出てたり。

    是は、対客に出てたる旗本の内、隠慝のあるものを、矢部兼て掬り得たりけん。相対して、寒暖を談する中より、忽に其人を吟味しけるに、申開きなかりけるより、直に如此計らひたるよし。扨々可怖人なりと言ひおこせたり。此書どもを彪より呈覧しけるに、如何にも聞しにたがはぬ人物かなと、公にも感歎せられた り。

又以て駿州の、烈公東湖の為に推重せられたるを知るべし。

駿州の町奉行たりしとき、東湖亦公事を以て、江戸に来りしが、一日公事を奉して、駿州を訪ひぬ。

『九月廿七日前一日、一書を裁し、近々罷越面話を得たき由をいひおこせたるに、翌日返書来り、明廿八日、閑暇の由なれば、廿八日、八ツ時、馬に跨り、雨を冒して、南の番所を指し、裏門(懇意のものは、皆裏門より来るよし、案内に依てなり)より内を玄関に参りければ、門番開門、直に馳せて通しけるに、取次出たれば、姓名を通じもあへず、矢部出迎ひ、是へ通とて、先へ立て書院の傍を経て、奥の間へ入る。

是は、某が、居間にて、失敬なから、御寛話も申度ゆゑ、引通し候と述べ、余が、佩刀をも侍者もて、床の前の刀掛にかけて、丁寧なるもてなし故、それぞれ謝し、佩刀をば、坐の後へまはし、坐定りて、公より命せられたる弘道舘碑浮亀を贈る旨をのべけるに、矢部も、当春御内々御詠拝受、身にあまり、冥加の段、猶又此度余か訪ひたる事をも謝して、扨、足下の名は兼て川路三左衛門並に山口玄亭より承知せり。

某は、第一、文盲、又武芸も熟練せず、折角御尋にても、何の御益もあるまじき事なりと、其口気、人を圧する勢なり。余、心に思ひけるは、矢部の不文不武、云はずとも知れたる事なり。文事ならば、林大学。武芸ならば、柳生但馬などこそ訪ふべけれ。

矢部を訪ふは、元より其吏材をとるなれば、かゝる所以なき言を発すべからず。足下は、堺奉行より当行まての来歴。尚又、当今万事一新の時、何を以て国に報するや、其あらまし、聞まほしゝと答へければ、矢部も欣然として、談論如故、日暮に至りけり。

 
意気精神
相激射

両雄の意気精神、相激射する処、亦見るべし。

葢し駿州と東湖とは独り個人的交際に止らず。亦実に政治上に於ても、其意見相投合し、駿州は烈公の為に、其内部に斡旋したることも、之れ有りき。左れは烈公の藩政革新に際し、幕府に取り入るに当り、駿州は、其内部に於て力を尽したること、亦少なからざりしなるべし。

『見聞唱義録』に曰く、
『越前守執政中の時、天保の末、公(烈公)越前守へ仰られけるには、暫帰国致し、国政を正し度存する間如何所存尋ると有しに、越州申上けるは、夫は誠に結構なる御事上にも被聞召下候。御満足に思召候へし、私よりも程克御執成申上候様可仕と御答申によりて、公より表向此段御願立になりし所、早速御願済にて御鞍鎧御拝領御暇なりし処、其節の被仰出に、緩々国政向御世話可被成御沙汰有之候迄者御出府には不及といふ事ありければ、公大に御憤りにて御発駕の節、近臣藤田虎之助に命せられ、吾初め越前守へ申聞たるとき、結構なる御事上にも御満足に可被思召と申聞、此方より願ひたる所、御沙汰有之迄出に不及との事に被仰出しは、全く此方在府致し居ては、権を執に邪魔になる事故、長く此方を国に差置、恣に権を執らんとの了簡故、此方を欺きたるなり。

其方跡に残り、此方使となり、越前守に面会し、此事を申詰め、事宜に寄らば、其座にて刺すべしと有ければ、虎之助、御跡に留り、度々水越の邸に行向ひけれど、越州恐れて事に託し、終に逢はざれば、流石の藤田も詮方なく。某へ此事を談しけるに、某いひけるは、夫は薬違いと申物にていくら参りたりとて、逢筈なし。

当節誰も御相談にのり候者なき時節なれど、矢部駿州守は、志しあれば、是れへ相談あるべし。左すれば、また致し様もあらむといひしにより、藤田、矢部に面会して此事を談しければ、矢部大に悦び、君公には格別御恩を蒙り候事なれば、箇様の時、御用立候事、願ふ所に候間、兎も角も働可申とて、引請ければ、藤田も悦いて帰りけり。是より矢部力を尽して、周旋しける事ありとぞ』。

此時、恐れて誰一人、公の御為に、周旋する者なかりしかと、流石、矢部は有名の人物故、斯る時たも、確然として一人引請たり。然れとも其子細は極秘事故、不洩なるべし。


其間の消息亦察すべし。

駿州の、餓死するや、東湖、時に水戸に在りしが、深く其死を悲み、詩を作りて之を哭して曰く、

       哭矢部駿州

    去歳辛丑、余以公事抵江戸。一日訪川路左衛門尉。談及当世人物。川路曰、不識矢部駿州乎。曰未也。其人如何。川路曰、智 謀有余、決断如流。非韓淮陰之流、則寇莱州之徒也。余、遂因川路与矢部相見。傾蓋如故。得詳其平生大畧。今茲、壬寅之 夏、聞其獲罪除藉、禁錮於某侯之邑竟不食而死。感涕賦詩

      眉目秀明神彩全。
      飛談雄弁孰争先。
      雖非廊廟棟梁器。
      豈譲都城方面権。
      空見亜夫縦理験。
      難期安国死灰然。
      祖宗有威霊在。
      不使寃魂淪九泉。

其哀慟に堪へざるの情亦想見すべし。

駿州の死後、四年。幕府、其冤罪たるを知り、家名を再興せしむ。東湖、時に、墨陀謫居の月に吟しつゝありしが、深く之を喜び、七言古風八十韻を賦して、祭文に代へ、其英魂を慰しぬ。其詩に云く、

 
七言古風
八十韻

      聞恩命録矢部駿河州之後
       喜而不寐賦七言古風八十韻以代祭文

    憶昔南郭相逢時。
    一見如故肝胆披。
    劇談未半日易落。
    巨燭見跋夜忘帰。
    
    聞説使君少年日。
    侠名早己都下馳。
    都下紀綱時不粛。
    博徒横行盈街逵。」
    
    巨魁潜託貴人第。
    官吏畏禍不敢治。
    使君新受追捕命。
    陰謀秘計応機施。」
    
    迅雷誰能暇掩耳。
    狡賊就捕日累々
    一朝擢為堺浦尹。
    父老歓欣待路岐。」
    
    吁嗟令郎何太長。
    (駿州之先子、亦甞為堺浦尹、時駿州尚総角、従先子在任云)
    刮目共恨発令遅。
    時有甲乙兄弟獄。
    積年不決至今茲。
    
    使君下輿直推問。
    僚吏聞之竊相嗤。
    甲曰某父唯一子、
    郷党隣里所熟知。」
    
    可憎彼漢称某弟。
    強顔巧辞欲貪貲。
    乙曰某母本娼妓。
    某係先人遺腹児。」
    
    親戚皆嫌所生賎。
    母子放逐久流離。
    甲乙堅執共不屈。
    官庁幾年信且疑」。
    
    使君明智既洞察。
    欲諭甲乙涕先垂。
    曰我不幸無昆弟。
    単身孤独有誰裨。」
    
    毎見他人華萼盛。
    従顧形影羨且悲。
    父子従来同一気。
    兄弟自古比連枝。」
    
    今汝甲乙豈匪人。
    罵弟譏兄事太奇。
    縦令博愛無及物。
    寧忍相逢不忸怩。」
    
    愧我無徳化汝輩。
    汝慎聴我唱歌詞。
    歌詞藹然声悽愴。
    満腔至誠感【馬矣】癡。」
    
    甲乙叩頭称兄弟。
    相抱悲歓泣前。
    使君声名愈赫々。
    旄戟遂向浪華移。」
    
    浪華商賈多豪猾。
    風俗自有豊公遺。
    老吏平八尤沈鷙。
    崛強動不肯指麾。
    
    使君撫治得其道。
    政蹟于今伝口碑。
    昊天不吊降災害。
    丙申丁酉歳荐饑。」
    
    老者転壑壮者去。
    空見飢鳥啄入屍。
    使君遂遷司農職。
    征旆未帰民相嬉。」
    
    当時争施賑恤策。
    使君独禁穀価。
    幾万赤子漸蘇息。
    恰似篤疾遭良医。」
    
    誰知君帰未数月。
    平八搆難驚王畿。
    称湯称武迹雖迂。
    因時乗勢事頗危。」
    
    天意既見災害熄。
    国威又聞兇賊夷。
    盛名之下難久処。
    閑廃優游殆再朞。
    
    忽逢辛丑百廃興。
    貢公弾冠事不違。
    幡然起拝市尹命。
    満城奸商悚然【丕】。」
    
    巫祝焉得唱左道。
    俳優不許演淫戯。
    風化速於置郵命。
    都城百里不敢欺。」
    
    無奈峭直世所忌。
    朱門先達多忌詭。
    (一作施々)人生孰能無細過。
    何堪吹毛求其疵。」
    
    文網繁密無由逃。
    一片孤忠好訴誰。
    寧赴湘流葬魚腹。
    敢(一作耻)為楚因老天涯。」
    
    餓死終同亜父憤。
    英魂漂泊去何之。
    第宅為墟妻孥散。
    九原何人送君【車而/大】。」
    
    時余方在東湖宅。
    聞之泣血空漣湎。
    蜀魂啼破三更夢。
    剪燭甞裁哭君詩。」
    
    嗚呼使君巳徂矣。
    寧識余亦遭百羅。
    何啻一身瀕万死。
    忍聞邦君困【/疾】藜。」
    
    可以死可以無死。
    中心如噎髪成絲。
    瓢尊無復故人与。
    箪食時見飢鼠窺。」
    
    雪堂難営蘇子坡。
    菊花久負陶家籬。
    零丁困厄渉寒暑。
    正気竊与文山期。」
    
    衆謗奚異沈舟羽。
    寸心誰憐向陽葵。
    陰陽消長自有数。
    日月未必無盈虧。」
    
    区区禍福何足怪。
    百年世事一変棋。
    堪笑悠悠軽薄子。
    終身諾諾又唯唯。」
    
    暗夜乞哀驕白日。
    金鞭銀鞍白馬騎。
    独有奇偉【周】儻士。
    卓落不受利名羈。」
    
    々夙慕管葛業。
    慨然誓欲張四雑。
    左支右吾志未遂。
    群小側目怒且【此/言】。」
    
    仮使萋斐成貝錦。
    何図煮豆焼豆【/其】。
    天道是非果何如。
    坐使犬羊窺辺陲。」
    
    一念及此腸欲裂。
    雙袖只見涙淋漓。
    忽聞特命録君後。
    孤子新浴恩露滋。」
    
    聞之欣然不能寝。
    此心豈出交情私。
    嗚乎君没四周歳。
    猶記俊偉卓絶姿。」
    
    不幸顛躓君勿怨。
    君名豈同草木萎。
    人間自有公議在。
    況復明時恵風吹。」
    
    須知天定勝群小。
    (一作能勝人)後嗣日有福禄随。
    廟堂更能推斯意。
    何患大厦難扶持。」
    
    直須城社駆狐鼠。
    一挙挽回大運衰。
    又応滄溟戮鯨鯢。
    永保宗社盤石基。」
    
    決壅蔽振士気。
    嚢中豈無頴脱錐。
    使君有知応冷笑。
    謫客扼腕欲何為。」
    
    一篇詞尽情未尽。
    危坐臨風薦斯巵。

維新の後、矢部氏の後、家道零落し、其遺物を売る。新潟県の農某、曾て芝の骨董店に於て、烈公の歌を書したる短冊を視。之を購はんと欲し、其価を問ひしに主人『是れ預り物なれば、後より答へん』と云ふ。某氏乃ち旅寓に帰りしに、幾もなく、某氏を訪ふものあり。前の短冊を出して曰く『是れ余が先子の、烈公より賜はりたるもの今や、一家衰微して一貧洗ふが如し。願くは卿の之を購ひ以て余輩を救はれんことを』と。其人は即ち矢部氏の嗣也。某氏、乃ち金若干を出して、之を購ひ、之を珍蔵せりと云ふ。

 
 


「矢部駿州」目次その18 その20

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