Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.18

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その20

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末の三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第廿 江川、羽倉、と駿州

江川英龍


江川太郎左衛門名は英龍、坦菴と号す。豆州韮山の代官として、声。名籍甚。

駿州、江川と少小より相知り、其交、最とも親善なり。茲に一の逸話あり、

    幕府の例規として、毎年の秋に至れば、何月何日より必ず玉川の鮎を将軍の膳に供するを常とす。而して玉川は、豆州韮山の代官、江川太郎左衛門の支配下たれば、同氏より納むる例なり。

    某年、其季に至れとも、之を納めず、膳番の小納戸役、之を江川に催促せしに、江川 は、『今月は、今に至るまで、一尾も捕獲せず』と答へぬ。膳番は、膳部献立の期もあれば、『相模川は如何なるや』と。問ひしに、江川は『相模川は、沢山捕獲したり』と云ふ。膳番『然らば、之を納められては如何』と言ひしに、江川『夫は、易き事なれば、相模川の鮎と称して納めん』とありければ、膳番は『夫れにては、差支ふるを以て、矢張玉川の鮎と称し納められよ』と云へり。

    然るに、江川は、元来正直の人にして、中々に聞入れず、そは、上を欺く罪人と云ひ、之を取合はさりければ、膳番より之を時の勘定奉行内藤隼人正に語りぬ。蓋し代官は、其支配下なればなり。内藤も元と膳番を勤めたる人にして、善く其情実を知るか故に、之を江川に諭し、玉川の鮎と称して納めよと云ひしに、江川、固く前説を主張して聞かざりければ、内藤は、持余し、強ること能はず、之を駿州に語りぬ。

    駿州曰く『余、能く江川に説服せしめん』と。折節適ま殿中にて、江川に邂逅し、種々談話の末、突然、問ふて曰く『時に足下の年齢は、何程なりしや』と。江川、何心なく、何歳なりと云ひしかば、駿州、之を詰りて曰く『幼年の時より、足下を知るが、夫は間違ならずや』と。江川答て曰く『是れは公齢にして生年は何歳なり』と。《葢し幕付の時、十七歳以下にて、家督するものは、禄を世々にすること能はず、固て増齢し、之を公齢と称し、習慣と為りて、官之を問はず、世人も敢て怪まさるなり。》駿州、之に謂て曰く『足下の年齢は、巳に公儀を欺く。然らば、則ち相模川の鮎を玉川の鮎と云ふこと敢て不可無かるべし』と。江川答ふること能はずして忽ち之に服せりと云ふ。
 
羽倉外記

羽倉外記名は用九、字は士乾、簡堂と号す。駿州の町奉行たるや、抜擢せられて、御納戸頭勘定吟味役と為り、後、鳥居の讒に由て其職を罷められぬ。

駿州、また羽倉と親密の交を為しぬ。茲に一の逸話あり、

    『武家にて、町家の地面を買ひ入れ、私に之を所持するは、厳禁なりしが、水野羽州執権の時代より、其禁弛み、権勢の臟吏の賄賂を貪り、余財を以て、町地を所有するもの多かりき。

    然るに、水野越州、改革の政を行ふに及び、町地の所有を禁止し、御用御側五島修理亮(連龍)其禁を犯せる罪を以て、其職を免ぜられ、所有の土地残らず引上げられ、其後、裏御門番頭大沢弥三郎も亦其職を免ぜられ、所有の土地引上げられ、差控を命ぜられぬ。

    初め、駿州、町奉行として、兼て大沢が、夥しく町地を所有せることを知りしも、其姦を摘するに由なきより、間者をして、大沢の地面にて博奕を催さしめ、同心に命じて、之を捕へ、吟味せしめぬ。

    然るに、其地面は、ヲリウと云へる婦人の地なりと町役人の申立ありしかば、之を詰問せしに、其実は、大沢弥三郎の買ひ入れたる地面なりと白状せり。乃ち役人をして仔細を認めしめ、其確証を以て、駿州より進達し、是に於て、大沢の罪、速に落着せりとぞ。

羽倉外記、之を聞て、駿州に謂て曰く『斯挙は、三忠と謂ふべし。』駿州、其故を問ひしに、羽倉曰く『足下、臓吏の姦を悪みて、之を摘せしは忠なり。間者、足下の為に博を催し、入獄して笞罪を受けたるは、忠なり。大沢、兼て賄賂を貪りたる結果として、夥しく土地を買ひ入れ、今は、悉く之を政府に献上したるは、又忠ならずや』と相対して一笑せりと云ふ。

両人の政治上に於て相切瑳して、益を求めたるの情態、亦想ひ見るべし。

 
 


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