江川太郎左衛門名は英龍、坦菴と号す。豆州韮山の代官として、声。名籍甚。
駿州、江川と少小より相知り、其交、最とも親善なり。茲に一の逸話あり、
幕府の例規として、毎年の秋に至れば、何月何日より必ず玉川の鮎を将軍の膳に供するを常とす。而して玉川は、豆州韮山の代官、江川太郎左衛門の支配下たれば、同氏より納むる例なり。
某年、其季に至れとも、之を納めず、膳番の小納戸役、之を江川に催促せしに、江川
は、『今月は、今に至るまで、一尾も捕獲せず』と答へぬ。膳番は、膳部献立の期もあれば、『相模川は如何なるや』と。問ひしに、江川は『相模川は、沢山捕獲したり』と云ふ。膳番『然らば、之を納められては如何』と言ひしに、江川『夫は、易き事なれば、相模川の鮎と称して納めん』とありければ、膳番は『夫れにては、差支ふるを以て、矢張玉川の鮎と称し納められよ』と云へり。
然るに、江川は、元来正直の人にして、中々に聞入れず、そは、上を欺く罪人と云ひ、之を取合はさりければ、膳番より之を時の勘定奉行内藤隼人正に語りぬ。蓋し代官は、其支配下なればなり。内藤も元と膳番を勤めたる人にして、善く其情実を知るか故に、之を江川に諭し、玉川の鮎と称して納めよと云ひしに、江川、固く前説を主張して聞かざりければ、内藤は、持余し、強ること能はず、之を駿州に語りぬ。
駿州曰く『余、能く江川に説服せしめん』と。折節適ま殿中にて、江川に邂逅し、種々談話の末、突然、問ふて曰く『時に足下の年齢は、何程なりしや』と。江川、何心なく、何歳なりと云ひしかば、駿州、之を詰りて曰く『幼年の時より、足下を知るが、夫は間違ならずや』と。江川答て曰く『是れは公齢にして生年は何歳なり』と。《葢し幕付の時、十七歳以下にて、家督するものは、禄を世々にすること能はず、固て増齢し、之を公齢と称し、習慣と為りて、官之を問はず、世人も敢て怪まさるなり。》駿州、之に謂て曰く『足下の年齢は、巳に公儀を欺く。然らば、則ち相模川の鮎を玉川の鮎と云ふこと敢て不可無かるべし』と。江川答ふること能はずして忽ち之に服せりと云ふ。
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