Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.19訂正
2001.7.16

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その3

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第三 文政時代と駿州

幕府衰亡
の端


水野忠友




水野忠成

白河楽翁、に由て改革せられたる寛政の政は、松平信明、本多忠籌等に由て、保たれつゝありしかば、徳川政府の紀綱、未だ地に堕つるに至らざりき。

然るに水野忠友、一たび出づるに及びて、小人道長じ、君子道消じ、子忠成(水野出羽守)に至り、始めて紀綱を乱し、幕府衰亡の端を冥々中に兆するに至りぬ。

水野忠友は、初め田沼意次に媚附して、側用人より老中と為り、互に相結托して、其権勢を擅にせしが、楽翁侯、中興の治を挙ぐるに当り、罷められて、雁間に候しぬ。然るに、

寛政の末年(九年十一月)水野再び出で、西丸の老中と為りしが、享和二年を以て卒し、養子忠成嗣ぎ、同三年奏者番と為り、文化元年寺社奉行を兼ね、尋て若年寄(十月)に擢でられ、同十年四月世子附側用人に進み、十四年八月老中格と為り、文政元年八月宿老に列し、是より、水野独り権威を擅にするに至りぬ

彼は、松平信明の卒せしより、独り会計の権を制し、始めて金銀貨を改鋳し、善く人主の意を迎合して、驕奢を逞うし、上下相率ゐて賄賂公行し、小人の徒、私利惟れ貪り、家老土方某の如き、門前市を成すに至りしと云ふ。

 
賄賂公行
茲に一の逸話あり、
    家老、土方縫殿助、専ら機務に参与するをもて、凡そ水野に求むることあるものは、皆土方に就て請託す。故を以て、其門市の如し。当時の人窃に語りて曰く『公方家は水野に背き給ふこと能はず。水野は、土方に背くこと能はず』と。
また、水野の驕奢なりしことに就て左の逸話あり、
    『水野、本所中之郷なる別邸に、林泉の勝を設け、花木亭舘、具さに結構の美を尽せり。因て台駕を此に迎へて、覧に供せんとするに、元禄以来、台駕宿老の邸に臨まれし例なきに困じ、一策を按じ、其近地小栂に、水戸家の別邸あるを幸に、先づ台駕之に臨み玉ふべく計画し、帰駕の折に通り抜けといふ名目にて其邸に迎へ奉りぬ。中の郷は、もと平曠の地なるに、假山を築きたれども、飛泉を設くること能はず。因て硝子を以て、線と為し、数万縷を束ねて、これを巉岩の間に懸ければ、遠く之を望むに、飛瀑の如くなり。又台駕を迎ふる前に、俄に移し植たる桜樹は、未だ花咲かざりしゆゑ、前日に紙帳して、これを覆ひ、炭火を熾にして、これに迫りしかば、暫時にして、其花悉く開きしとなり。』
一瑣事と雖、亦水野の平生を見るべき也。

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一頭地を
出す
駿州の出でたるは、水野盛世の際にして、中央政府の紀綱、荒廃しつゝある時にてありき。而して、彼が、賄賂満眼、請託横行、の社会に於て、一頭地を出し、或る範囲に於て其才を展ぶるを得たるものは、何ぞや。

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大久保忠
真





闇黒中に
於る光明
水野に対し閣老として、声望ありしものは、大久保忠真(加賀守)其人なりき。大久保忠真は、忠顕の長子。寛政八年家を嗣ぎ、文化中奏者番と為り、寺社奉行を兼ね、同七年六月大阪城代と為り、同十二年四月所司代と為り、文政元年八月宿老に列せられたるもの。大久保、人と為り沈重にして大体を識り、人に接する謙。政を行ふこと苛刻ならず。

彼は、水野を圧するほどの勢力なかりしと雖、或る点に於て、水野政治の欠漏を補ひければ、上下の嘱望、中外の倚頼、主として、彼にありき。

要するに、闇黒なる水野政治の中に於て、一点の光明を認めたるは、彼ありしを以て也。而して駿州が、出身の地を得たるものは、大久保の推轂に由ることを忘るべからず。

 
 


「矢部駿州」目次その2その4

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