藤田東湖が、当世の人物を川路聖謨に訪ひしとき、川路は、首として駿州を推したる程なれば、川路が駿
州の人と為りに服せしこと知るべき也。
駿州と川路との交は、何れの頃よりしたることを知らざるも、天保辛丑、駿州が、町奉行たりしときは、川路は佐渡奉行より小普請奉行たりき。而して、駿州と川路とは、肝胆相照らすの交を有したりき。川路は、時務に付て、駿州に問ふ所ありき。葢し川路は、駿州に比すれば、其機智敏活の処を欠くと雖、其国家の為に忠実なるに至ては、則ち、両人未た甞て其志を一にせずんばあらず。
茲に一の逸話あり。
『或る日、矢部駿河守へ、某(聖謨を指す)が語りしに、某は元小給より御取立になりたることなれば、家に附たる家来、素よりなく、前途困ることもあるべしとのことを以てせり。然るに、駿州笑て、曰く『足下は、思ひしよりも気の小なる人なり。五万石十万石の禄ありて譜代の家来の内、より撰ひて用ゆる故。家来に人材少なくて、困り可申。幸に予も足下も小禄にして、譜代の家来無し。されば、天下の諸浪人は、皆拙者等の家来と心得。其内より撰ひ出さんには、いくらも豪傑が出可申候。人は使ひ方にて、いかなる者も使ひ得べきものなり』と。駿州は一器量ある人なりけり。(敬斎随筆)
川路の謹厚なる資性と、駿州の卓落なる気象とは、照らして写し見るか如し。而かも其交の尋常ならざるを知るべし。
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