Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.19訂正
2001.7.19

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その4

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第四 出身

番騎士

駿州、父の蔭を以て、御小性組と為り、尋て番騎士と為りぬ。而して、彼の、嶄然として頭角を出し、穎脱の才を顕はしたるは、実に此時よりしたりき

当時、番騎士の風たる、故者の新者を凌き、之を使役すること、婢僕も啻ならが、殆と言語に絶したる振舞多かりしに、彼は番騎士と為りしより、断然身を以て、其弊風を打破せんとせり。茲に一の逸話あり、

    甞て、真夜に中り、寒気甚し。老輩駿州に頤指して、熱粥を作らしむ。粥は、衆儕輩が、晩餉の余を行厨より集め、混合して作り、熱に乗じて、椀に盛り、恭しく之を進むることにて、其賎陋なる、言う計りなきも、故輩、坐なから傲然として、之を受て怪まず。稍や意の如くならざれば、稠人の前にて罵責を加ふ、其辱、殆ど堪ゆべからず。

    駿州窃に之を恚り、故らに、灯盞を傾け、油を粥中に注き、撹き、知らさるまねして、之を供せしかば、故輩、餐なるに舌を鼓して、之を試んと、戯れなから、箸を執り、或は喫し、或は未だ喫せずして、嘔気を発する者あり。是に於て、あはたゞしく、駿州を召して、其故を語りしに、駿州自若として、百事拙劣、衆儕に及はざるを謝し、百口侮辱を受け、黙して争はず。明早退直に際し、家に帰るに及はず、先づ番頭某氏の邸に至り、謁を請て、詳に昨夜の始末を述べて、毫も隠さず、終りて徐かに曰く『小臣既に隊風の宜しからざるを訴へて、故宿儕輩を議す。其罪辞すべからず。敢て請ふ、今日より、其職を辞せんことを』と。番頭、其強ゆべからざるを知りて、止めず。乃ち其請を免せり

      《右は山口泉処の老親なる林内蔵が、平生泉処に語る処なりとて、栗本匏菴の漫録に見ゆ》
駿州は、此の如くにして、其職を辞せしかとも、之か為に頑愚なる故老は、罷斥せられ、隊風一新し、後、数日にして、駿州徒頭に挙けられぬ。
 
凡を抜く
こと数等
駿州一たび頭を出せば、其凡を抜くこと、数等。是より人に知られ、旗下儕輩、一時皆敬憚の意を表せざ るものなく、是より漸次に累進して顕職に登るに至りしと雖、其驥足を展べんが為には、権道を行ふこ とを辞せざりき

藤田東湖の『見聞随筆』に云く、

    矢部、余に謂て曰く、足下は、川路左衛門と親しきよし。川路又は岡本忠次郎などいへる者は、元来勘定所より出身せり。勘定所は、人々才力を以て出身する場ゆゑ、川路岡本、いづれも、其道立派なり。某は元来、三百俵の御番士より斯まて立身したるは才力にあらず。皆賄賂を以て致したる事にて、大方の嘲りもあらんと思ふなりと。語れる風情、さすがに取飾なし。且は英雄の気象ありける故。彪答へけるは、いかにも、老兄と川路とは、出処同じからざる故。出身の相違もあるべし。

    賄賂を以て出身するは、元より誉むべきにあらざれども、爰に一ツの説あり。全く自家の腴を欲し、富貴逸楽を希はんとて、賄賂を行ふもあり。又恬淡無為には、終身無間のみならず。上の為に心力を尽すことも、なし得ず。さらば、少く道を枉けて当路に出で、国家の為に力を尽し、名をも後世にあけまほしきとて、自ら進て求る人もあるべし。此二人は、路同うして、志異なりと云ふべしと申しければ、矢部も欣然として悦びけり。此事、川路が所謂小韓信、小寇莱と云へるに的中せり。胯下の耻を忍びて、天下に大功を立んと思ふ心、洞察すべし

 
胯下の耻
を忍ぶの
苦心
彼が、秩序的階級的の封建社会に処し、其覊絆を脱出して、其才を展ぶるを得たるもの、所謂胯下の耻を忍ぶの苦心を知らざるべからず。

 
 


「矢部駿州」目次その3その5

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