『幕末三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第五 先手頭としての駿州 | ||
大久保の 抜擢 |
駿州が、能吏として、絶世の才幹を顕はしたるは、実に徒士頭より先手頭火付盗賊改兼務の職を奉したる際に在り。而して駿州の人と為りを看破し、之を抜擢したるは、大久保忠真其人なりき。 当時、幕府は、家斉将軍の下半期にして、文恬武煕、紀綱廃頽の絶頂に達したる時なりき。市政の如きは、漸く寛縦と為り、無頼の徒、跋扈し、賭博の輩横行し、而かも此等の悪漢、大抵、無藉にして、身を権貴の皀隷傭僕中に混し、東西出没、変幻自在、或は主家の名を衒ひて、無告の民を恐嚇するの類多く、警吏捕卒と雖、憚かりて手を下すこと能はず。知ると雖、知らざるまねして、之を等閑に付し去りぬ。
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巨魁屏息 悪風一変 |
駿州一たび先手頭火付盗賊改兼務の職に任せしより、凛然敢然、下吏を督励して、貴戚を避けず、力めて之を蒐狩し、毫も仮借せさりければ、巨魁屏息、此輩、一時蹤を絶つに至りぬ。茲に一の逸話あり。
閣老大久保加州、深く之を憂ひ、駿州の奇才を識り、之に任するに、此職を以てし、必ず捕獲せしめんとす。駿州曰く、『正しく古役(当役は二人)の処に在り。加ふるに、彼れ、町奉行へも深く結び置けば、容易に捕縛すること能はず。宜しく之を寛緩にすべし』と。其後、駿州、病と称して出仕せず。然るに、一医の其邸に来る者無し。此れ世人をして、其病因如何を恠ましめんとすればなり。 或るとき、三之助に結托せる組与力二人を喚び、之に謂て曰く『余は、長々の病気なれば、今日将に辞職せんとす。然れとも、子等の知るか如く、長髪長鬚なるも、曾て一人の医薬を用ゐず。病因は四百四病の外に在りて、実は、只今辞職するも遺憾なりと思ふ。』と。 与力等恠みて、其病因如何を問ひしに、駿州曰く『愧づべきことながら、貧病にて、蔵宿始め所々にて他借も尽し、最早拙者へ、金を貸す者無し。故に金策を依頼せんと欲す。聞く同僚の部屋頭三之助なる者、頗る金策家なりと。内々にて借用は出来まじきや。』と。 与力等、真の貧病なりと信し益す念を入れて聴取りたる上、之を承諾し、窃に三之助に談せしに、三之助、固より駿州を憚かり居りければ、之を聞て、大に悦び、速に諾し、且つ曰く、『尊君等を疑ふにあらざるも、願くは直ちに矢部公に呈出せんことを』と。 与力之を復命せしに、駿州、曰く『是れ固より内々の事なれば、面会苦しからざれども、部屋頭の如きものなれば、公然の面会は憚かる所あり。因て庭前に廻して面会せん』と三之助を奥坐敷の庭に廻し、面会中、予しめ手筈したる用意の如く、其場に於て直に三之助を捕縛せしと云ふ。 葢し、与力等に命するときは、三之助、常に結托し居れば、速に内通し、逃亡するを以てなり。而して、駿州は、其翌日より直に出仕せり。』 天保二年五月廿七日に至り、松浦忠衛門、奥山主税助、共に其奴三之助博奕の事に依りて、差控を命せられ、三之助同類数十人、皆刑に処せられぬ。』 | |
陰謀秘計 応機施 |
東湖の詩中に『使君務受追捕命。陰謀秘計応機施』と云ひ、『迅雷誰能暇掩耳。狡賊就捕日累々。』と 云ふもの、此事実を指して、謂ふ也。 | |
霊警なる 能吏 |
駿州が、機敏霊警なる能吏として、倍す其名を轟かし、功を以て堺奉行に超遷し、駿河守に任せられたるは、是時よりしたりき。
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