『幕末三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第六 堺奉行としての駿州 | ||
駿州は、天保辛卯(二年)十月二十八日、堺奉行と為り、同癸巳(四年)七月に至る。任に在ること、殆と二年。此間、頗る嘉績有りき。 | ||
令郎君何 そ成長の 早きや |
駿州の父、堺奉行たりしとき、駿州亦従て、堺浦に在りしかば、其奉行として之に赴くや、其地の父老、猶能く其総角にして、父の官舎にありしことを記するものあり。『令郎君何ぞ成長の早きや』と言ひ合ひて喜びたりとなん。 『見聞偶筆』に云く、
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一世の美 談難獄の 解決 |
堺浦在任中、彼が一世の美談として、伝ふべきものは、甲乙兄弟の間に結ひて解けざる難獄をば、一首の古歌もて、之を氷釈せしめたること、是なり。 国学者北村季文の『堺の浦風』に云く、
遂に奉行の政所にこそ訴へ出たりけれ。かくいふは葉月ばかりのことになん。とかく考へ糺すに、元より人にも隠せしことなりしかば、証とすべきよしもなし。二人ともに、六十に近き齢なれば、それ等の幼かりしほとのこと、詳に知れるものさへ処にも少なくて、処につきたる文書めくもの、召上けて見るにも、商人の子は子ありて、彼の医師の子は外になし。かゝれば、為次は、いとにいひしろひて、したり顔す日数経ぬれど、別に明むべきやうもあらず。されど旧き人ともの、さゝやきことに、彼子がありさま、さなから、昔のまゝの面かげして、父に似たること、諺に、瓜を二ツにしたらんやうなりとは、是かことにやなといひあへり。 奉行もこれをさぐり知てければ、実に今の為次の強てつれなく告訴ふること、直ならねと、下には思へと、させる証なければ、せんすべなし。こなたは、元より父が遺言なき上に、一族のものさへしらずと申すを証とせり。彼が答弁を誠とすれば、人の常をすつるに似たり。 是が訴をとらんと思へば、又目の前の理に違はんことと、奉行も思ひわつらいぬれど、さてあるべくもあらねば、遂に二人を呼出して、彼兄が、申処、実の子なる理り、定かならねば、猶うけかたし。為次が申す処は、事の始末、既に明白なれば、まさしく兄にはあらぬなるべし。かゝれば、此訴は、為次が理りにこそといはれば、為次いとしたり顔しぬかつきツゝ立んとするを、奉行詞を改めて、やよ、いかに、為次は大和唐土の文にもわたりたれば、詩歌の上もうとからずとか聞く。さらば、物の心をもよく得たらん。今、一言ものいはん。 昔の歌に、
これは、しも、恋の歌ながら、其理りは万の上にも通ひてん。汝、奉行の問に答へては、理り、ゆゝしげにいひぬれど、己が心の己に問はは、そもそも何とかはいらふべき。其答詞こそきかまほしけれと云かけられて、いかゞ思ひけん、為次は、時うつるまて起もやらず、さしうつむきつゝ有るに、上も下もいかに為るぞと守り居たれば、やゝありて、あと、一声放ちて泣伏しぬ。 在合ものとも、彼は心や違ひぬらんと見るほとに度々涙おし拭ひて、
かゝる折こそ、思ひ知て候へば、あはれ、今日のことは、のとめ玉はんかしといひ出たり。ざらばとて、いふがまゝに、其日は返してけり。 又の日、彼の為次の申すやう、此度のことは、共に中和きて、彼が世渡りの料ともなれかしとて、黄金三百両贈りて、得させ侍らんと、申せしかば、奉行をはじめ、下司等も、それでこそ、いとあらまほしきことには、ありけれとて、事始て平きぬ。 さても、昨日古歌いひかけしかは、何とて、しか心よはがりしぞと問たりけるに、某政所に召されし初より、いかに、責問るゝとも、只それとは得いはじと思ひ定めて、侍りしを彼歌の玉ひ又申すべき詞もなくなりて、遂に承り伏しぬ。とこそ申けれ。 これを測るに、始め父が我子をかくして、人に、はごくませし頃、陰に物なと贈りうしろ見せしをありけんを、為次は下に快からず思へるなるべし。さるを父か頑しく己に知せざりしを詞にして、つれなかりし顔せしにこそしかはあれど、一首の歌に、心の誠を顕はしぬるは、只管いひかひなきものにて、あらざりけるにやと、駿河守のいひこせしと。』 | |
至誠以て 人を諭す |
是れ実に天保癸巳(四年)三月の事なりと云ふ。後、藤田東湖、此事を駿州に問ひしに、駿州之に答へて曰く 『何も是れ某が手際にはあらず。畢竟するに、其兄、剛情にて、服せず。吟味の席にて、某も言ひ負かされ、殆と当惑せるあまり、至誠を以て、之を諭せしに、存外に屈服し、其事、人口に膾炙せるは、耻づべき事なり』と。 是れ独り、彼が、機変に通ずるの才を見るのみならず、至誠の以て人を動すに足るものあるを知るべき也。
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