Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.7.30

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その7

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第七 大阪奉行としての駿州


令聞益す
高し

駿州天保癸巳(四年)七月、堺奉行より転じて大阪町奉行と為り。《久世勢州(広正)此歳六月長崎奉行に転す》同七年の秋に至る。任に在ること、凡そ三年。此間町奉行として駿州の令聞は、益す高くなりぬ。
 
竹島密商
の獄
駿州が、大阪奉行として、其績を効したるが中に於て、最とも人口に膾炙せるものは、竹島密商の獄を治めたること、是なり。当時の筆録に云く、
    石見国、浜田の廻船問屋、八右衛門といへるもの、前の領主松平周防守の用達なりしが、漁猟のことによせて、竹島に渡り、密に外国人と交易せしこと、発覚し、松平周防守の老臣を始とし、之に連坐して罪せられしもの、数十人あり。初め、駿州、彼の八右衛門を捕縛せんとて、属下のものに命じ、これを探索せしめたるに、八右衛門は、深く匿れて見えず。僅にかの船頭善右衛門と云へるを召し捕へて、之を糺問したれば、其情実、未だ詳ならず。駿州、因て、一策を按じ、故らに、善右衛門を放免せしめけるに、属下のもの、危みて、かゝる大罪のものを放ち遣らんこと、いかゞあるべきやといふに、假へ、このことにより、政府より咎めらるゝことありとも、そは、我一人の罪にて、汝等は、あつからぬことなれば、強ち憂ふるに足らずとて、竟に放免せしが、やがて、其手より善右衛門の所在を知り得て、之を逮捕したりと云ふ。
其事を料り、情を揣るの、明、火の如き、是れ彼の、彼たるの本色に非ずや。
 
貧民救済
の策
駿州、また当時、諸国の飢饉相踵き、関東関西、米価日に騰貴するを憂ひ、之が救済の策を講しぬ。当時の記録に云く、
    『天保七年、諸国洪水ありて五穀実らず、関東関東の米価、日々に貴からんとしたりければ、利を見るに敏き大坂の富商なとは、争て米穀を買入れ、いよいよ価貴きに及び、一時に売り出して、大利を得んとて、ますます細民を困しめけり。

    駿州、かねて、此事を察したれば、予しめ富商ともに、諭して曰く『己れの利をのみ希ひて、衆民の困苦を顧みざるは、人間にあるまじき行なり、汝等ゆめゆめ買占めなんど、非道の事をなすべからず』と。

    懇切に戒しめつゝ、尚ほ組下の同心に言含めて、監察の手配り大方ならざりしが、果して、或る豪商の密に北国米を買入れて、毎夜己が河岸蔵に積み入るゝものあり。駿州之を聞き、彼の米、全く積入るゝを待ちて、其商人を呼び集め、顔色を和けて問て曰く『汝か河岸蔵の前を過きりしに、幾多の人の足音して、苞やうの物を積入るゝを見たれども、固より微行なれば、提灯も持たせず宵闇のほの暗くして、如何ならん物とも見分けざりき。かねがね諭し置きたれば、吾れも之を米なりとは思はねども、念の為めに尋ねんと欲す』と。

    商人答へて曰く『是れ炭なり』と。駿州笑て曰く『吾れも左あるべしとこそ思ひたれ。幸に奉行所にても炭に事欠きたる折なれば、其炭あらん限り、買上げとらすべし。孰れにしても何方へか売らんとするものを、一時に残りなく買上けんことは、冥加の至りならずや。直に受書を出すべし』と。

    商人語窮し、已むなく受書を出して退きぬ。駿州乃ち同心を遣はして、十棟はかりの米庫へ、一々封印を付け、苞数に照らして炭の価を与へぬ。適ま米価益す貴く、細民の飢にふもの多かりしかば、再び彼の倉庫の戸を開かせ、悉く炭の価もて売り与へしが、此高合せて三万五千苞と聞えぬ。』

大阪の細民皆駿州の徳を仰がざるものなかりき。

駿州、また借財裁判に就ては、能く其旧慣に仍て之に処し、公明にして私なかりき。『見聞随筆』に云く、

    『矢部曰、大阪并に堺には借金出入の裁判定法ありて、能く事情を得たる扱なり。

    たとへば、甲某乙某より借金返済滞り、乙より訴と為るとき、奉行所にて双方呼出し証文見届け、相違なければ卅日の内返済すべき由を申渡す。三十一日目の朝呼出し、未だ返済方叶ひがたき時は、又三十日の日延を許し、必す返済すべき由を申渡す。六十一日目の朝、呼出し、未だ返済方整はざるに於ては、定法の通り甲へ手錠申付。是非返済すべき旨を申渡す。九十一日目の朝呼出し、未だ整はざる時は、手錠をば許し、さてさて追々申渡し、手錠まで申付たるに返済方致さゞる段、不届に付、定法の通り家屋敷道具等残らず、乙某へ引渡すべき旨申渡す。

    此定法と云は、妻子眷属等、皆立のまゝにて夏冬とも、それぞれ不断着用したる衣服のみ渡し、家財は勿論、先祖の位牌まで残らず貸方へ没収する掟なり。

    扨、甲某は誠に耻辱此上なけれども、千両に笠一蓋の譬の如く、乙の方へ破れ家を不残さし向け、又かく申渡を受る上は、他の細々しき借金は、一円返 すに及ばざる事になりて、あれば、無借金の人となり、棄損も同様なり。さりながら、父母妻子其日より路頭に迷んと思ふに、こゝに一つ面白き事あり。

    大阪には、三郷借屋請負人と云ものあり。三郷とは、仮令は天満郷某郷々々と三郷に長屋ありて、右の家は残らず、貸方へ没収せられたる者のみ、住居す。其世話人を請負人と云。甲某来れば、直に請負人の手に付、三郷の内にて然るべき長屋をかり、其日より商ひでも始めらるゝ也。親類懇意など世話して、遂に家業を起し、さきの貸方へ掛合をつけ、位牌は何程にて返しくるゝよとて、追々熟談整へば、貸方にて無用の位牌等を所持せんよりは、掛合談じ金を取り、其上にて熟談整へば、家をも丸に返すなり。

    甲某家に帰ることを得れば、其日より又元の如く何町の何屋と回復す、奉行所にても、元より借金を返ずばかりの罪ゆゑ、熟談整ひたる由、乙より届れば、夫にて事済なり。甲も家産を失ふほどの愚漢なれども、三郷借屋へ入れば、会稽の耻を雪んと激励し、一代の内に回復するもあり、たとへ父は回復することを得ずとも、其子は貧窶の世に生長し、父の業を復するなり。多き中には、いよいよなり下りて、三四代も借屋人にて終るもあり。

    江戸にては借金出入り訴へになれば、雙方へ理解を含めなどすれども、其間に奸吏因縁して賄賂を貪るの弊少なからず。大阪堺は、右の如き故、何事なく済むこと良法なりと。矢部語る故。某疑て問けるは、いかにも面白き法なれども、甲某三十日延の中に、私に家財道具等売払ひ、貸方へ引渡すべき命を蒙りても、引渡す品なき様に巧むの愚はなきや。

    矢部手を拍て曰、かくは問せたり。某も語り落せし故、不審尤なり。日限の中に、家財を外へ出す者は、三日晒の上、所払の法なり。是は役人吟味せずとも、第一、乙の方にて日夜心を付け、甲の方に若し鍋一つたりとも他へ持出せば、直に訴るゆゑ、甲も奸を行ふことを得ず。且つ三日晒の耻を受るのみならず、所払になりては、三郷借屋へ入ることも叶はず。終身回復もならず。妻子路頭に迷ふ業ゆゑ、甲も家財を他へ出さゞるなり。

    只公事にならさる以前、最早産を失はんと思へば、貸方より訴にならぬ内に、家財等漸々売り払ひ、又は親類等へ預るもあり。それ ゆゑ、貸方にても、此借主は、返済むつかしからんと思推するときは、亦あらかじめ、手を廻し、其動静を察し、聊も家財等他へ送り出すの萌しを見れば、忽ちに奉行所へ訴出る事なり。此定法、有徳公より始ると申伝ふなり。実に難有御事なりと語れり。』

後年、駿州町奉行たりしとき、東湖に語て曰く

『只麾下の士、身を青雲に托して、驥足を展べんと思ふもの、当今の制度にては、三奉行を最とすれども、勘定奉行は、寺社奉行の事に預らず。町奉行は、経済の事に関することを得ざれば、自ら左支右吾の勢なきに非ず。たゞ遠国の奉行職は、一人にて、僧徒の仕置、町人、百姓の治をも兼ぬるか故に、十分に担当して、其才力を尽すことを得れば、極めて愉快なり。今、町奉行を命ぜられ、格録とも、結構なれども、十分に事を成すは、却て大阪奉行の面白きに若かず』 と。

彼が、大阪奉行として其伎倆を展べしこと、想見するに堪たり。

 
 


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