Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.2

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その8

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第八 天保の饑饉






天保饑饉

天保丙申(七年)の秋、駿州、大阪奉行より勘定奉行と為りしが、時、適ま、凶饑に際せり。而して、駿州が米価下落の策を講じ、貧民の救済を謀りたるは、此時の事にてありき。

天保の饑饉は、天明以後の大災にして、全国の一大厄難なり。其饑饉の、事実如何。

    『天保二三年の頃より、兎角気候順ならず。秋収の不足を告げしに、四年に至り、夏の半頃より、霖雨数旬に渉り、暑熱甚た薄かりしに、六月の末に、川々水溢れて、民家を浸し、田畑を損すること夥し。八月朔日には、暴風吹て、人家の倒れ、林木の折るゝこと、勝て計ふべからず。随て田作畑作、及び菓物に至るまで、其害を受けざるものなし。此に於て、庶民饑渇に苦むこと、大方ならず、奥羽地方、殊に甚しとす。

    或る撃剣師の漫遊して、松前に渡りしもの、九月朔日、松前を発して、帰途に就き、三馬屋にわたりて、旅店に投し、翌朝、宿銭を問ふに、四百五十文なりといふに、先つ驚き、それより外が浜辺をたどり行くに、稲穂はみな直立して、実りしもの一本も無し。此日、足を痛めければ、僅に五六里行て、宿をからんとするに、米なしとて貸さず。因て蕨の粉なと、買ひ求めて、強て、一夜のやどりを乞ひ、

    又次のやどりには、いぶせき民家に入て、昆布ごんば艸、ゑごなといへる海草を稈麦に交へて炊き、又は粥、雑炊にしたるを食となし、或は、ねごといへる莚の如きものを蒲団の代りとしたり。

    又ある日には、漁人のもとに行て、鰹十五六尾、買求め、重荷のはしに、結付け、朝暮これを食となして、行き、四五日の間は、米といへるもの、目にだに見ざりき。此辺の村里にては、皆猫を殺して食へり。犬は未た死もやらず。よろほひなから行くを見たり。村民は、乞丐と為りて、他国へ散するもの、幾千人といふことを知らず。或は、餓死せし人をあだといふものに載せて、村送りにするもあり。半死半生にて、路傍にやみ臥すも、数多し。道行く流民を見るに、大根をかみ、青菜に塩を利して食ふもあり。はや、四五日、もの食はぬとて、袖にすがり、行厨を奪はれしこともしばしばなり。

    依て、常に便りよき処にては、米を求め、団飯を作らしめて、携行きしなり。夫婦して、四歳の児と、当歳の嬰児とをつれ、非人となりて家を出でしに、食を得る便りなきまゝに、妻は、二児を抱て川に沈みしかば、夫も同しく川に飛入て死せしものあり。かゝるたぐひもかずかず聞き及びぬ。年比飼ひ置ける馬あり。殺して食ふに忍ひずとて人に与へて去り、又は袷一ツを米一升にかふるものあるなと、いたはしきことの限りなり。

    津軽の境、碇鼻にては、小屋を設け他国より追返さるゝものに、粥を煮て食はしめ、且つその小屋にやどらしむ。

    秋田に出つれば、作毛少しく宜しけれと、かてめし粥なと喰ふことは、津軽に同し、庄内は、人心やゝ穏かなり。

    最上は、秋田に比すべし。伊達郡に出て、先つ半収を得べしと見えたり。十月の半に、野州寺子村知己の方に両三宿し、其語る所、此の如しとなり。

    又、南部盛岡に到りしものゝ話に、両三年打つゝける不熟に、本年は、殊更大凶年にて、常年に十俵を収むるもの、僅に半俵を得るに過ぎず。故に、一家こぞりて、逃散するものに逢ふこと、一日百人に下らす。

    はたごは、一宿四百文にて、菜は、あんぽんたんといふ塩魚に、汁には山あさみの莖葉を用ふ。城下、又は、山中等、処々へ小屋をかけ、一日一人に一合ほとの粥を与ふ。近比は、それも届きかね、小屋内にて、死するものあまたあり。巳に二千人ほとも死したるよし、大坑を堀り置き、屍は、其内へ、打込むとなり。蕨粉を取しかす、又は、米の磨き汁なとを乞て、僅に飢を凌くものあり。夜、間道路へ、菰をしきて、臥すものあり。人家の軒下へ、小児を捨て、又は飢人の倒れ死するものあるゆゑ、士家商家とも茨をもて軒下を塞き置くこと、毎家皆然りとなり。

    四年の飢饉より、中二年を隔て、七年の夏は、雨陽いよいよ、順を失し、六七月に至れとも、陰雲四合、日光を見ること、稀に、風気陰冷、人々皆冬衣を着し、扇を手にする日なし。

    六月廿一二日の頃には、処々白毛を降らす。長短斉しからされども、長きは二尺に余るもあり。馬毛に類せり。かゝる変異のことなとありし故、世人いよいよ、危み、如何なる天災のあらんと案せしに、果して、天下一般の大飢饉となりて、五穀みのらず。菜蔬菓物の類まで、何一として、熟せしものなし。

    此歳も、奥羽の災、殊に甚しく、岩城の辺にては、艸根木芽は、いふに及はす。鶏犬猫牛馬の類まで食ひ尽し、夜にまぎれ、出で、麦苗の一葉を生せしを抜取るものあり。桃生、牡鹿の両郡は、餓死せしもの幾千人に及ふべく、秋の末までは、餓と呼ひて、泣き叫ぶ声を聞きしが、後には其声も絶たり。路傍に斃れし、餓は、犬なと噛みちらし、血肉狼藉、実に目もあてられずとなり。

    米価は仙台にて、蔵米四斗二三升入一俵を金三両にかへ、白米は四升を一分に、大豆は九升を一分にかへたり。其余の物価これに準ず。

    十四五歳までの童児、芭蕉の辻辺にさまよひ、夜に入れば、寒しと泣き、餓しと叫ぶ声、実に聞くに忍びず、是れ其父母、他領へ走るときに棄て去りしものゝよし。深更に及び、其哭声の悲しさ、何に喩ふべきやうもなし。

    老人病者などは、皆川に、身を投じて死せりと見ゆ。古人の老弱は、溝壑に転すとは、此ことなるべし。

    加美郡より江刺郡へ赴く途中にて、父母は、已に死し、妻も死し、十二三の女子と、両人にて、有壁沢まで、往くに、女子も亦死せしかば、自ら鉈を以て枯木を切り、女子の肉を炙りて啖ひ、又あとより飢民の来るありて、両人して(七年十二月)三日より六日までに、過半食ひ尽し、両人とも斃死し、女の首は、未た枝に貫れ置けるよし。親しく見しものゝ談なり。

    古史に子を易て、食ふといふことあり、誠しからぬことと思ひしに、只今右の如くなることあり。』

 
米価騰貴
飢饉よりして、府下も亦連年米穀不足し、価も亦騰貴し、殊に、此歳七月十八日、八月朔日、大風雨ありて、近郷出水しければ、騰貴に騰貴を加へ、蔵米百俵、百四十五両。市価は両に六斗五升より、二斗二升まて上り、百文に、二合八勺まて上りぬ。幕府之を憂ひ救小屋を筋違橋外、和泉橋外に設けて、貧民を救済するに、粥又は米を以てし、また浅草の蔵米四万俵を分与し、町会所よりは、銭を給する等賑恤の挙ありしも、町与力同心の輩、姦商と結托して、窃に私利を其間に営みぬ。而して当時、筒井政憲、町奉行として、之を監せり。  
賑恤は姑
息の小恵
手段
当時、駿州は、当路者に反するの意見を建て、以為らく

米銭を以て、之を賑はすか如き、姑息の小恵手段にして、真に能く斯民を救ふ所にあらず。寧ろ、恵みて、貴くせざるに若かず』と。

因て米価下落の議を建てしに、幕府の容るゝ所と為りければ、先づ浅草の倉廩を開き、米三十五万石に付、金四十二両の定めを以て、都下の米商に払下げて之を売捌かしめ、其法は、予しめ売上帳を製し置かしめ、米三升以下を買うふものには、原価を以て、売渡すべき旨を命し、其売上代価は、現米引取の日より、十日以内を納期とせりと云ふ。

而して、此策の実行せられてより、米価大に低落し、市民、餓死の災を免るゝことを得たり。

左れば、其頃、市民の落首に

    御救や、飢饉の沙汰を矢部にして
         米価をやすく駿河かんじん
 
恰似篤疾
遭良医
と云ひはやさるゝに至りぬ。

東湖の詩中に『当時争施賑恤策。使君独禁穀価。幾万赤子漸蘇息。恰 似篤疾遭良医。』とあるは、即ち此事実を指す也。

 
 


「矢部駿州」目次その7その9

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