Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その28

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第三章 江戸時代の文化と社会
  三 幕末期と幕府の崩壊
     幕府諸藩の財政窮乏
管理人註



両替商

















十人両替













諸侯の借金






























幕府の御用
金




























































町人階級の
運命

 当時の貨幣制度は金貨(大判小判)は金貨、銀貨は銀貨で、それぞれ               ぜに 別の相場が立ち、それに従って銭の換算率が変ってくるので、両替商は 金銀銭貨の交換をして手数料をとるばかりでなく、金銀の相場の変動で  ざや 値鞘だけ儲けることができた。両替商は後には商人の金を預かり、また は貸金をする今日の銀行に似た業務を営み、手形を流通させるようになっ た。  両替商の取締が必要となってきたので、寛文初年(一六六一)東町奉 行石丸定次は天王寺屋五兵衛をはじめ、同作兵衛・富田屋弥右衛門・鴻 池屋善右衛門ら十人を、幕府の金銀出納を掌る御用両替に命じ、一般の 貸付金も認め金融の円滑をはからせた。これが十人両替で、この配下に 二十二組あって過書町、今橋筋、高麗橋筋などに店を構えて盛んに取引 し、後に北浜一丁目に金相場会所が生れて十人両替の支配下に属した。 両替商は多いときには市内に四百軒以上もあり、天保三年(一八三二)、 いまの北区内には、東天満組(綿屋伊兵衛外六名)、西天満組(今社屋 東助外八名)、中之島組(布屋甚九郎外五名)の三組があった。  貨幣経済の発達とともに諸侯は農民から年貢を多く取立てると百姓一 揆騒動を起すこととなるので、次第に大坂の掛屋に対する借金を増加す ることとなり、これが返済のため諸侯は蔵屋敷にある知行米を払下げる ことによる売上金を振替えることが通例となった。諸侯は掛屋の機嫌を そこなわぬよう大いに努め、掛屋に対して扶持を与え家老同様に待遇し、 両替商にして掛屋を勤める者も多かった。しかしその貸借関係は容易に 決済せられず利息がかさみ、元金はもとより利息すら支払が困難となり、 遂には諸侯は町人に頭が上らず封建制度崩壊の因をなすに至った。  掛屋のうちで鴻池善右衛門の如きは加賀・広島・阿波・岡山・柳川の 五藩の掛屋を勤め、尾張・紀州の用達を兼ね、扶持米のみでも合計一万 石に達した。大坂で鴻池といえば金持と同意語のように用いられ、大正 年間まで「ウチは鴻池の親戚やさかい、まかせときやす」などという冗 談がかわされていた。有名な掛屋である鴻池善右衛門・加嶋屋久右衛門・ 加嶋屋作兵衛・米屋平右衛門・辰巳屋久左衛門・平野屋五兵衛などには、 幕府がしばしば御用金を仰付けるようになった。はじめ幕府は財政の窮 乏を救うために貨幣の改鋳、すなわち良貨に代るに悪貨をもってし、そ の品位の差によって利益を得、元禄八年(一六九五)の慶長金銀の改鋳 以後、正徳元年(一七一一)に至る十七年間には改鋳すること四回の多 きに及んだ。宝麿十一年(一七六一)十二月が大坂における幕府の御用 金のはじめであり、そののち御用金九回に及んだが、一定の利子を附し て年々に償還する公債の如きものであった。天明年間(一七八一−一七 八九)の御用金は諸侯の救済を目的としたが、幕府白身もその間に利息 をとることを忘れなかった。  天保以後、幕府の財政の窮迫はいよいよ甚しくなり、天保十四年(一 八四三)以後、慶応二年(一八六六)にいたる間の御用金は全く幕府自 身の財政の欠陥を補うためのものであった。御用金を申渡すときは町人 を「御用之儀有之、明何日何時、麻上下着、何御役所へ可罷出候」 という書面をもって町奉行所へ呼び出す。主人は病気だといって大てい は代人が出て、そこへ幕府の役人らが来て御用金を申渡し、日を違えて 用金高を指定する。時によっては力一杯申出るよう示したが、多くは高 圧的に金高を申渡したが、町人の方でもそれを希望し、いろいろの口実 を設けて指定高の減額を企てることもあり、押問答の末、請書を出すこ ととなったもので指定高と請高との間には必ず相違があった。天保年間 の御用金は翌年から二十カ年々賦で、年二朱の利子をつけて返却する約 束であったが、これらの御用金が幕府の崩壊によって大坂町人の蒙った 損失は約十六・七万貫に達した。  武陽陰士の「世事見聞録」に武士階級に対して町人が富を得て、遊里・ 料亭に遊び賛沢するのを攻撃して、町人とは義理、恥かまいなく、うそ 偽りを本手に年貢なく、役なし、照り降りなしの作りとりをして儲ける ものであると述べられている。しかし支配者の財政的窮乏に食い込んで、 次第に肥えていった町人の商業資本も、狭隘な国内市場のなかにあって は結局、武士の奢侈や農民の困窮を好餌とする奇形的なものとなるより ほかなかったのであり、町人階級は封建体制を変革する役割はになっ たが、これと運命をともにするものであった。  江戸における状況ももとより同様で、文化・文政時代の町人の日常生 活は弱々しい官能的なものに堕し、十一代将軍家斉(老中松平定信〉の 寛政の改革(一七八九〉十二代将軍家慶(老中水野忠邦)の天保の改革 (一八四一)も、一時しのぎの自己防衛策にほかならなかった。

   
 

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徳富猪一郎『近世日本国民史 文政天保時代』その11
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