大阪の橋梁は江戸と同じく公儀橋と町橋との二つに分れる。江
戸では普通前者を御入用橋といひ、稀に公儀橋といふ。大阪の公
儀橋は天神橋・天満橋・難波橋(以上大川)・京橋(大和川)・
シギノ
鴫野橋(平野川・猫間川落合)・野田橋・備前島橋(以上鯰江
川)・農人橋・高麗橋・本町橋(以上東棟堀)・日本橋(道頓
堀)・長堀橋(長堀)の十二橋で、その他はすべて町橋である。
天明七年(一七八七)の調査に町橋総計百四十三橋とある。これ
に公儀橋十二橋を加へて百五十五橋となる。天満・天神・難波の
三大橋は江戸の永代・新大橋・両国の三大橋に此ぶべきもので、
ヒラキ
天満橋は長さ百十九間五尺開共、幅三間半、天神橋は長さ百二十
六間三尺八寸開共、幅三間、難波橋は長さ百十八間六尺開共、幅
三間である。開といふのは橋の両端の開いて居る部分をいふ。
公儀橋の費用は大阪金蔵より支出し、請負人を募つて改架修繕
を行ひ来たつたが、明和六年(一七六九)塚口屋七兵衛なるもの
に旅籠屋株三百株を許し、冥加として鴫野橋を除き、他十一橋の
普請を請負はしめた。七兵衛は三百株を一ケ月一株十五匁にて貸
付け、この貸付料にて経費を支弁せんとする考であつた。然るに
株料を支払はずに旅籠屋を営むものがあり、集金意の如くならず
といふ理由の下に、安永二年(一七七三)新に六百株を増し、貸
賃を減らして五匁とし、同九年別に御橋手当銀六百貫目を他より
借請け、希望者に一貫目一ケ月十五匁の利足にて貸附け、この十
アヒギン
五匁と七兵衛から貸主に支払ふ利足との差銀即ち間銀を普請入用
に加ふるを許した。爾来天保度株仲間廃止の時代を除き、幕末ま
でずつとこの通りでした。尤も引請人は塚口屋の外に別に一人を
加へたり二人を加へたりしましたが、文化以来旧に復して塚口屋
一人だけでした。
町橋にはそれ\゛/橋掛町々があつて普請を掌る。毎橋橋掛町々
の町数を異にし、また費用分担の方法は橋掛町々の随意に規定す
る所であるが、大体橋詰の両町が一番多く費用を負担し、橋を去
ホンガカリ
ること遠ければ少い。標準になる金額を本掛といひ、何町は本掛
ダンオチ
何割ときめる、これを段落といふ。例へば長掘心斎橋についてい
ふと、橋掛町々は二十二ケ町あるが、橋詰の両町で二分の一を出
し、残二分の一を南北の二十町から一割落で出す。橋掃除の費用
も同様に段落で出す。さうしてその町々では右の銀額を町内の間
口にあてゝ取立てた。即ち間口割である。然しながら芝居町にあ
る道頓堀戎橋の如きは、芝居矢倉を橋掛町同様に認め、四ツ角四
町芝居矢倉四軒で二分の一、残八町で二分の一の入用を負担する
規定でした。それから蔵屋敷の船入橋が七つある。いづれもその
蔵屋敷の一手持です。
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