Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その48

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (8)
管理人註

大阪の公儀 橋 その普請請 負人 町橋

 大阪の橋梁は江戸と同じく公儀橋と町橋との二つに分れる。江 戸では普通前者を御入用橋といひ、稀に公儀橋といふ。大阪の公 儀橋は天神橋・天満橋・難波橋(以上大川)・京橋(大和川)・ シギノ 鴫野橋(平野川・猫間川落合)・野田橋・備前島橋(以上鯰江 川)・農人橋・高麗橋・本町橋(以上東棟堀)・日本橋(道頓 堀)・長堀橋(長堀)の十二橋で、その他はすべて町橋である。 天明七年(一七八七)の調査に町橋総計百四十三橋とある。これ に公儀橋十二橋を加へて百五十五橋となる。天満・天神・難波の 三大橋は江戸の永代・新大橋・両国の三大橋に此ぶべきもので、             ヒラキ 天満橋は長さ百十九間五尺開共、幅三間半、天神橋は長さ百二十 六間三尺八寸開共、幅三間、難波橋は長さ百十八間六尺開共、幅 三間である。開といふのは橋の両端の開いて居る部分をいふ。  公儀橋の費用は大阪金蔵より支出し、請負人を募つて改架修繕 を行ひ来たつたが、明和六年(一七六九)塚口屋七兵衛なるもの に旅籠屋株三百株を許し、冥加として鴫野橋を除き、他十一橋の 普請を請負はしめた。七兵衛は三百株を一ケ月一株十五匁にて貸 付け、この貸付料にて経費を支弁せんとする考であつた。然るに 株料を支払はずに旅籠屋を営むものがあり、集金意の如くならず といふ理由の下に、安永二年(一七七三)新に六百株を増し、貸 賃を減らして五匁とし、同九年別に御橋手当銀六百貫目を他より 借請け、希望者に一貫目一ケ月十五匁の利足にて貸附け、この十                       アヒギン 五匁と七兵衛から貸主に支払ふ利足との差銀即ち間銀を普請入用 に加ふるを許した。爾来天保度株仲間廃止の時代を除き、幕末ま でずつとこの通りでした。尤も引請人は塚口屋の外に別に一人を 加へたり二人を加へたりしましたが、文化以来旧に復して塚口屋 一人だけでした。  町橋にはそれ\゛/橋掛町々があつて普請を掌る。毎橋橋掛町々 の町数を異にし、また費用分担の方法は橋掛町々の随意に規定す る所であるが、大体橋詰の両町が一番多く費用を負担し、橋を去                   ホンガカリ ること遠ければ少い。標準になる金額を本掛といひ、何町は本掛           ダンオチ 何割ときめる、これを段落といふ。例へば長掘心斎橋についてい ふと、橋掛町々は二十二ケ町あるが、橋詰の両町で二分の一を出 し、残二分の一を南北の二十町から一割落で出す。橋掃除の費用 も同様に段落で出す。さうしてその町々では右の銀額を町内の間 口にあてゝ取立てた。即ち間口割である。然しながら芝居町にあ る道頓堀戎橋の如きは、芝居矢倉を橋掛町同様に認め、四ツ角四 町芝居矢倉四軒で二分の一、残八町で二分の一の入用を負担する 規定でした。それから蔵屋敷の船入橋が七つある。いづれもその 蔵屋敷の一手持です。

高松橋
徳島橋
熊本橋
久留米橋
他


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