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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その46

猪俣為治

『朝日新聞』1898.11.11/12 所収

朝日新聞 明治三十一年十一月十一日
大塩平八郎 (五十三) 猪俣生

  其九 大阪(続)

大阪ハ、右に述べたる状況を保持して寛政五年に至れり、寛政五年ハ平八郎の生れたる時なり、右に述べたる時態を継続して天保元年に至れり、天保元年ハ平八郎が其職を辞したる時なり、

高井山城守天保元年十月を以て東町奉行の職を辞するや、其後任として同年十一月八日、曾根内匠之に代れり、而して当時大阪の城代ハ太田備後守資始にして、西町奉行ハ新見伊賀守なりき、然るに太田備後守同二年五月二十五日に於て京都所 司代に転任し、松平伊豆守信順代りて大阪城代と為り、新見伊賀守ハ同年九月十日に於て小姓番頭格御用取次見習に転じ、堺奉行たりし久世伊勢守同年十月十二日を以て大阪西町奉行と為れり、越て二年即ち天保四年六月十九日を以て東町奉行久世伊勢守ハ長崎奉行に転じ、同年七月堺奉行たりし矢部駿河守来りて東町奉行と為れり、而して矢部駿河守の大阪に来りし時ハ正に是れ第一回の天保飢饉の漸やく始まらんとするの時なりし、

矢部駿河守ハ、当時の有司中出色の人物にして能く吏務に通じたるのみならず、又英雄の気格を具へ、藤田東湖ハ彼を評して小韓信と為せり、彼 東町奉行と為るや、飢饉の為に米価騰貴し、細眠の困苦甚しく、且つ奸商輩、往々米穀を蔵匿又ハ買収して私利を聾断するを見て、厳に奸商輩を制し、其家屋米倉を点検して、隠米を発き、或ハ払米を為し、或ハ救米を為し、以て米価を制限して一升の価をして百五十文を超えざらしめたり、是を以て奸商輩其利を専にするを得ず、大阪の貧民大に其慶に頼るを得たり、

越て五年四月、大阪城代松平伊豆守信頼ハ京都所司代と為り、江戸寺社奉行たる土井大炊頭利位大阪城代に転じ、六年七月八日大久保讃岐守ハ大阪西町奉行と為れり、

然るに天保七年四月に至り、矢部駿河守ハ江戸勘定奉行に転ぜしを以て、其後任として跡部山城守来りて之に代れり、而して跡部山城守の来りし時ハ、恰も第二回の天保の飢饉の将さに始まらんとするの時なりし、

第二回の天保飢饉ハ、其惨毒固より第一回より甚だし、吾人ハ今旧記に就て当時大阪の物価表を掲載すべし、


朝日新聞 明治三十一年十一月十二日
大塩平八郎 (五十四) 猪俣生

  其九 大阪(続)

右の表に拠るに、天保八年に於ける米一石の価ハ保字判を換算する今日の相場を以て之を推すに、実に十五円九十銭にして、又物価上騰の極端に於ける白米一升の価ハ、五十一銭即ち一円に付き一升九合四勺なりしなり又天保八年に於ける諸物価表ハ左の如し

此の如き市政の組織の下に在りて、此の如き富豪 を有し、而して此の如き飢饉の惨に罹れる大阪ハ 則ち是れ跡部山城守大塩平八郎が馳聘格闘したる舞台なりき、吾人ハ既に舞台の一斑を記したるを以て、是より進みて俳優が此舞台の上に立ちて如何に行動せしかを記せざる可からず、而かも之に先ちて跡部山城守が如何に痴呆にして、自己の臥榻内に他人の鼾睡を容れて顧みざりしか、又矢部駿河守が如何に狡獪にして、耕夫の牛を奪ひ、飢人の食を奪ふの活手段に富みたるかの一斑を記すべし、一書に曰く、 夫れ巧手の勝つ所の棋局ハ、拙手の敗るゝ所の棋局なり、智者の集めし財ハ、愚者の費やせし財なり、矢部駿河守が得て以て江戸幾万の諸士を救ひし所の米ハ、即ち跡部山城守が失ふて以て大阪幾万の町民を苦しめし所の米なり、嗚呼為政家の才と不才とハ実に民の休戚生死の分るゝ所なり、吏を任ずるの際豈慎まざる可けんや、


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