Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.3
2000.1.23訂正

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「咬菜秘記」目次


「咬 菜 秘 記」その3

坂本鉉之助

『旧幕府 第2巻第9〜10号』(冨山房雑誌部) 1898.9〜10 より


◇禁転載◇

適宜、改行・句読点をいれています。


〔大塩平八郎と渡辺村〕

此後、貞一人参候節、頻に貞に学文を勧め、 と申し、扨 申には、

と尋る故、 と答へけれは、

と申故、貞が答に、

側なる本箱より何か半紙二三枚に書きたる帳を出して、 と申故、手に取て見れば、当地穢多村渡辺村の穢多共の掟書なり。

第一ケ条は、御公義様御法度之事決而相背間敷 抔ありて、数ケ条の末の一ケ条に、我々ともは、運拙くして同し人間に生れなから畜生同様、人間交りも出来ぬ身なれ共、伝へ承るに、漢土にて樊【口會】といふ人は屠者にて我々の仲間なれとも、時を得て王侯貴人に至られし事あれは、我々ともも 公義御法度を能く守り、今日悪事を致さす律義に職業を精出さは、後に時を得て人間交りの出来る事もあるへき間、此掟の條々を一統能く可相守といふ掟書の括りのケ條他。

其時、平八郎申は、此処にて候。

と申候。

貞、其時は甚感心致し、中々大器量ある人にて、貞等か思慮の及ふ処に無之、と唯閉口して聴居たり。

扨 是は文政四年にて、平八郎廿八歳の時也。

是より十七年の後、騒動の節、貞此事を存出し候故、定而此度も穢多ともを遣ひ候事と存候処、穢多が働きたることいふ噂も無之、又、穢多なれは市中乱妨の仕方一入暴虐の所為をも可致処、能く穢多ともの加り不申事と存、跡部へ此咄を致し候処、跡部被申候には、

跡部被申候。


此穢多を遣うことを或人に話せしが、其人申は、

と云しに、貞は其評を心得せす。

是は、必竟 大塩か事も為し得ぬ所の跡から云ふ評にて、若し大塩如き事の外より起りて人々手に余りたる時、平八郎穢多を遣ひて捕鎮めたらは、其時は、何とかいふへき。権謀術数は兵家の常にて、織田殿 豊臣殿抔、尤も権謀術数而已にて、しかも譎詐の多き事なれとも、一端大業を済されたることなれは、善事に用ゆるか、悪事に用ゆるかの差別はあれと、唯其穢多を遣ふと云一事を以て、塩か始終を論する事は如何あるへき。

されとも廿歳の台より其幾は伏せし事にや。


参考
『大塩平八郎と民衆』大阪人権歴史資料館編 大阪人権歴史資料館 1993


「咬菜秘記」その2その4目次
その1〜3<要約>

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