Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.10.29

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その131

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  五 騒乱 上 (2)
 改 訂 版


北船場に入
る




























東横堀川を
渡る

大阪では大川以南長堀川以北、東は東横堀川西は西横堀川で限つ た地を船場といひ、船場の中でも北船場は金穴で、今橋筋高麗橋 筋には、富商豪家軒を並べ甍を列ねて其繁栄を誇つてゐる、之を 打潰すのが大塩党の目的であるから、片端から炮碌玉を投込み、 火矢鉄砲を打込んで焼立てた、即ち今橋筋では鴻池屋善右衛門・ 鴻池屋庄兵衛・鴻池屋善五郎等鴻池屋の一党、天王寺屋五兵衛・                     イハキマスヤ 平野屋五兵衛等、高麗橋筋では三井呉服店、岩城升屋等皆此災に 罹り、鴻庄の如きは金四万両を掠奪されたといふ、併し千両箱一 箇を四貫目とすれバ、四万両は百六十貫目となり、一人や二人で 運ばれるものでは無い、加何に混雑の際といへ、何人の眼にも触 れずに三拾四拾の千両箱を担いで往けはしまいから、四万両紛失 一件は覚束ない話であるが、兎に角焼討を被つた家家の損害は莫 大なものであつたらう、三平の吟味書によると、一党は今橋高麗 橋筋を散々に暴れてから二手に分れ、一手は今橋を渡り、一手は 高麗橋を渡り、再び合したとあるが、恐くは難波橋を渡つてから 間もなく二手に分れ、今橋筋高麗橋筋を東上し、左右に火を放ち、 東横堀川を越えて上町に出たのであらう、然るに討手の蔭さへ見 えぬので、両隊再び合して一となり、東横堀川に沿うて南へ進み、 内平野町の米屋平右衛門米屋長兵衛等、米屋の一党を焼払つたの である。

 大阪では大川以南長堀川以北、東は東横堀川西は西横堀川で限     センバ つた地を船場といひ、船場の中でも北船場は金穴で、今橋筋高麗 橋筋には、富商豪家軒を並べ甍を列ねて繁栄を誇つてゐる。之を 打潰すのが大塩党の目的であるから、片端から炮碌玉を投込み、 火矢鉄砲を打込んで焼立てた。即ち今橋筋では鴻池屋善右衛門・ 鴻池屋庄兵衛・鴻池屋善五郎等鴻池屋の一党、天王寺屋五兵衛・                     イハキマスヤ 平野屋五兵衛等、高麗橋筋では三井呉服店・岩城升屋等皆災に罹 り、鴻庄の如きは金四万両を掠奪されたといふ。併し千両箱一箇 を四貫目とすれば、四万両は百六十貫目となり、一人や二人で運 ばれるものでは無い、加何に混雑の際といへ、何人の眼にも触れ ずに千両箱三十四十を担出すことは出来まいから、四万両紛失一 件は覚束ない話であるが、兎に角焼討を被つた家々の損害は莫大 なものであつたらう。杉山三平孝右衛門の周旋で大塩邸に住込み、 当日は列中に加へた百姓町人の進退を指図すの吟味書によると、 一党は今橋高麗橋筋を散々に暴れてから二手に分れ、一手は今橋 を渡り、一手は高麗橋を渡り、再び合したとあるが、恐らくは難 波橋を渡つてから間もなく二手に分れ、今橋筋高麗橋筋を東上し、 左右に火を放ち、東横堀川を越えて上町に出たのであらう、然る に討手の蔭さへ見えぬので、両隊再び合して一となり、東横堀川 に沿うて南へ進み、内平野町の米屋平右衛門米屋長兵衛等、米屋 の一党を焼払つたのである。


「大塩平八郎」目次4/ その130/その132

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ