Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.10.31

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その132

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  五 騒乱 上 (3)
 改 訂 版


陣列   

刀剣鑑賞家が新々刀の開祖と嘆賞する水心子正秀の門に、大慶直 胤といつて其師をも凌ぐ名工がゐる、之が暴動の始末を詳細に書 いて江戸に報じた手紙によると、大塩隊は三陣に分れ、先陣の大 将は大塩格之助、中陣は大塩平八郎、後陣は瀬田済之助で、各隊 に配附せられたる党員の氏名のみならず、大砲の門数・之に供ふ 人夫の員数、面々所持の武器類までを書いてあるが、今其氏名を 挙げると、

大井庄一郎

大塩格之助

庄司義左衛門

    金助
      柏岡伝七  白井孝右衛門
      松本隣太夫 茨田郡次
   木八 上田幸太郎 杉山三平 
      阿部長助  深尾才次郎
大塩平八郎 曾我岩蔵 志村周次 
      高橋九右衛門 渡辺良左衛門
   七助 堀井儀三郎 近藤梶五郎
      安田図書  橋本忠兵衛
      西村利三郎 柏岡源右衛門
瀬田済之助

本表の通りで、松本隣太夫の申口と略符合する、義左衛門の申口 に旧冬平八郎に面会の節、自然異変あらば、門人共を率ゐて一方 の防方致したき心組なりとて、先備・中備・後備と三段に門弟を 引分けたる列書を見せたとあるから、全員を三段に備へることは 予定の陣立であらう、尚人名について一々検すると、同人並に正 一郎の申口により、両名が先手にあつたことは確であるが、それ と同時に義左衛門が今橋筋で大砲の火口に吹かれ、右の手首其他 に負傷し、辛うじて同勢に引添つて進んだことも明白である、又 中陣の人数中柏岡伝七は、十九日の朝平八郎より居村般若寺村の 人夫を引連れまゐれと命ぜられ、上田孝太郎は檄文配附を命ぜら れ、共に暴動に加らず、又阿部長助は天満五丁目辺の人、平八郎 の家来、木八七助は大塩邸の中間とあるが、長助木八の事は明な らず、七助ハ吉助の間違で、当日病気のため同じく暴動に与らな かつた、又済之助の若党植松周次同人中間浅佶は、勿論最初から 主人に従つたのであるが表には見えぬ、本表は斯様に少々宛の差 はあるが、先づ大体に於て正しいものとし、さて此順序によつて 何時まで進んだか、殊に全隊が二手に分れてから、何様な順序で 進んだか、それは少しも解らぬ。

 刀剣鑑賞家が新々刀の開祖と嘆賞する水心子正秀の門に、大慶 直胤といつて師を凌ぐ名工がゐる。之が暴動の始末を詳細に書い て江戸に報じた手紙によると、大塩隊は三陣に分れ、先陣の大将 は大塩格之助、中陣は大塩平八郎、後陣は瀬田済之助で、各隊に 配附せられた徒党の氏名のみならず、大砲の門数・之に供ふ人夫 の員数・面々所持の武器類まで書いてある。今その氏名を挙げる と

大井庄一郎

大塩格之助

庄司義左衛門

    金助
      柏岡伝七  白井孝右衛門
      松本隣太夫 茨田郡次
   木八 上田幸太郎 杉山三平 
      阿部長助  深尾才次郎
大塩平八郎 曾我岩蔵 志村周次 
      高橋九右衛門 渡辺良左衛門
   七助 堀井儀三郎 近藤梶五郎
      安田図書  橋本忠兵衛
      西村利三郎 柏岡源右衛門
瀬田済之助

本表の通りで、松本隣太夫の申口と略符合する。義左衛門の申口 に旧冬平八郎に面会の節、自然異変あらば、門人共を率ゐて一方 の防方致したき心組なりとて、先備・中備・後備と三段に門弟を 引分けた列書を見せたとあるから、全員を三段に備へることは予 定の陣立であらう。尚人名について一々検すると、同人並びに正 一郎の申口により、両名が先手にあつたことは確であるが、それ と同時に義左衛門が今橋筋で大砲の火口に吹かれ、右の手首その 他に負傷し、辛うじて同勢に引添つて進んだことも明白である。 金助は下辻村の猟師だ。又中陣の人数中柏岡伝七は、十九日の朝 平八郎より居村般若寺村の人夫を引連れ来れと命ぜられ、上田孝 太郎は檄文配附を命ぜられ、共に暴動に加はらず。阿部長助は平 八郎の家来、木八七助は大塩邸の中間とあるが、七助は吉助の間 違で、当日病気のため同じく暴動に与らなかつた。曾我岩蔵は格 之助の若党だからこれは先陣にゐたらう。済之助の若党植松周次 同人中間浅佶は、勿論最初から主人に従つたのであるが表には見 えぬ。本表は若干誤謬があるとしても、先づ大体に於て正しいも のと認める。然し一党はこの順序によつて何時まで進んだか、殊 に全隊が二手に分れてから、何様な順序で進んだか、それは少し も解らぬ。


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