Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.11.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その134

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  五 騒乱 上 (5)
 改 訂 版


玉造口与力
等平八郎の
挙兵を信ぜ
ず







清五郎















応援の命下
る


















同心小頭二
名


































東町奉行所
の警備

玉造口本月の月番同心支配は坂本鉉之助である、鉉之助は荻野流 の砲術に達し、此日は裏の稽古場で大筒の町打をするとて、門人 も彼是集つてゐた、彼は天満の出火と聞き、早速大御番所へ出勤 し、月番平与力本多為助・山寺三二郎・小島鶴之丞も亦出勤に及 び、その節為助は只今の出火は天満の大塩平八郎の仕業なる由、 同心支配岡翁助より承りたりと言つた、之は翁助が出入の猟師清 五郎から聞いた話で、清五郎は兼て大塩邸へも出入をし、天満に 火事があつたら来てくれよと頼まれて居つたので、今朝出掛けた 所、発砲放火の大変を見て吃驚し、翁助方へ逃帰つて話をしたの が発端であつた、併し何人も為助の話を信用せぬ、信用せぬが何 様只事で無い様である、万一御頭但馬守より御沙汰のあつた節、 不在他行とあつては不念につき、一統総出仕の心得でゐるやうに と、鉉之助は為助三二郎に命じて組中へ告知らしめた、間もなく 与力同心一統総出仕との命が下つたので、大御番所に残つてゐた 鶴之丞も為助三二郎同様組内を駈廻り、又鉉之助は上屋敷から呼 ばれ、公用人畑佐秋之助を以て下の如く申渡された、曰く平八郎 乱暴につき、跡部山城守より依頼の筋あり、同心支配一人・与力 二人・同心三十人、孰れも鉄砲を携へて東町奉行所へ赴くべく、 猶京橋組へも右の旨を通達するやうにとあつた、勿論彼人に行け 此人に行けといふ言葉はないが、鉉之助は遁れぬ所と覚悟し、自 分参るべしとお請を致し、立帰つて当番与力脇勝太郎へ右の次第 を物語り、手紙を以て京橋組へ申達に及んだ、さて同心三十名は 鉉之助及翁助配下より十五名宛を撰び、銘々御預の銭砲玉薬を持 つて土橋に集れと同心小頭に命じ、平与力二名には蒲生熊次郎本 多為助を指名し、鉉之助は自宅へ戻り、火事装束に草鞋掛といふ 身拵で土橋へ往つた、此時熊次郎並に同心三十人は既に集合して ゐたが、小頭二名はまだ来ぬ、様子を聞くと、先刻両度まで山城 守から催促の使者で、公用人の秋之助は一足お先へ行くといつて 出掛けたとのこと、さては遅れたりと覚ゆ、小頭来らば跡より駈 付くべしと命じつつ、鉉之助等は御堀端を西へ進み、途中で為助 及山城守より差出した三度目の使者に出会し、愈々急いで東町奉 行所へ駈付けたが、秋之助は京橋口へ廻つた為まだ着かぬ、西組 与力近藤三右衛門東組与力朝岡助之丞交々応接し、何分先方は大 砲を所持してゐる故、当方も大砲を用ふべきか、願くば大砲を御 持参ありたしとの口上であつたが、鉉之助等は聞入れぬ、頭但馬 守の申付により、手前共三名は十匁の持筒、同心共は三匁五分の 御渡筒を持つてまゐつたので、今更大砲と仰せられては、再度帰 宅の上支度を致さねばならず、急の間には合ひ兼ねるやに存ずる、 鉄砲は地の利次第と申すもの故、先づ場所を拝見いたしたし、矢 除の為土俵入用につき御用意ありたく、土俵これ無くば米俵にて も宜しく、一体敵勢は何の位の御見込にや、五六拾にせよ、五六 百にせよ、場所さへ宜しくば屹度此の人数にて相防ぎ申すべしと 言切り、兎に角山城守殿へ御直談仕りたしと迫つた、然し先方の 申條を無理に斥けることもいかゞと、鉉之助為助相談の上、乗馬 を借用し、熊次郎をして命を玉造口与力隠居小林専右衛門に申伝 へ、鉉之助所持の百目筒をば用意せしめた、四ツ時鉉之助為助は 山城守に面会し、山城守自身の案内にて書院の庭へ出で、場所を 一覧に及んだ所、北手は天満橋を一面に見下し、至極の要害であ るが、前面所々に梅樹があつて見通しの邪魔になる故、伐払ふや うにと再度まで申述べ、又南手島町の方は籾戚との堺に塀があり、 塀笠から十四五人も並打が出来るから、此処は控柱並に松樹へ丸 太を結び、其上へ武者走の板を渡せば充分であると申述べたが、 混雑する計で一向事が運ばない、仍て鉉之助は引率して来た同心 共に命じ、防禦の準備を為さしめ、書院の庭へ立戻つた、山城守 が人夫を出して天神橋を破壊せしめたのは大抵此時分である。

 玉造口本月の月番同心支配は坂本鉉之助である。鉉之助は荻野 流の砲術を能くし、十九日は裏の稽古場で大筒町打のため火薬を 調合するとて、門人も彼是集つてゐたが、彼は天満の出火と聞き、 早速大番所へ出勤した。月番平与力本多為助・山寺三二郎・小島 鶴之丞も亦追々出勤したが、その節為助は只今の出火は天満の大 塩平八郎の仕業なる由、同心支配岡翁助より承つたと言つた。之 は翁助が出入の猟師清五郎から聞いた話で、清五郎は以前から大 塩邸へも出入をし、天満に火事があつたら来てくれよと頼まれて 居つたので、今朝出掛けた所、発砲放火の大変を見て吃驚し、翁 助方へ逃帰つて話をしたのであつた。併し何人も為助の話を信用 せぬ、信用せぬが何様只事で無い様である。万一御頭但馬守から 御沙汰のあつた節、不在他行とあつては不念につき、一統総出仕 の心得でゐるやうにと、鉉之助は為助三二郎に命じて組中へ告知 らしめた。間もなく与力同心一統総出仕との命が下つたので、大 御番所に残つてゐた鶴之丞も為助三二郎同様組内を駈廻り、また 鉉之助は但馬守上屋敷に呼ばれ、公用人畑佐秋之助から下の如く 申渡された。曰く平八郎乱暴につき、跡部山城守より依頼の筋あ り、同心支配一人・与力二人・同心三十人、孰れも鉄砲を携へて 東町奉行所へ赴くべく、猶京橋組へも同様の旨を通達するやうに とあつた。勿論彼に行け此に行けといふ言葉はないが、鉉之助は 遁れぬ所と覚悟し、自分参るべしと挨拶し、立帰つて秋之助申渡 の旨を手紙を以て京橋組へ通達に及んだ。さて同心三十名は鉉之 助及び翁助配下より十五名宛を撰び、銘々御預の銭砲玉薬を持つ て土橋に集れと命じ、平与力二名には蒲生熊次郎本多為助を指名 し、鉉之助は自宅へ戻り、火事装束に草鞋掛といふ身拵で隣家の 熊次郎を誘ひ土橋へ赴いた。この時同心三十人は既に集合してゐ たが、様子を聞くと、先刻両度まで山城守から人数催促の使者が あつたので、公用人の秋之助は一足お先へといつて出掛けたとの こと、さては遅れたり、急げとばかりに鉉之助等は御堀端を西へ 進み、途中で為助及び山城守より差出した三度目の使者に出会し、 愈々急いで東町奉行所へ駈付けて見ると、秋之助は京橋口へ廻つ た為まだ来て居らぬ。西組与力近藤三右衛門東組与力朝岡助之丞 交々応接し、何分先方は大砲を所持してゐる故、当方も大砲を用 意致したく、願はくば大砲を御持参ありたしとの依頼であつたが、 鉉之助等は聞入れぬ。頭但馬守の申付により、手前共三名は十匁 の持筒、同心共は三匁五分の御渡筒を持つてまゐつたので、今更 大砲と仰せられては、再度帰宅の上支度を致さねばならず、急の 間には合ひ兼ねるやに存ずる。鉄砲は地の利次第と申すもの故、 先づ場所を拝見いたしたし。矢留の為土俵入用につき御用意あり たく、土俵これ無くば米俵にても宜しく、一体敵勢は何の位の御 見込にや、五六拾にせよ、五六百にせよ、場所さへ宜しくば屹度 此の人数にて相防ぎ申すべしと言切り、兎に角山城守殿へ御直談 仕りたしと迫つた。然し先方の申條を無理に斥けることもいかゞ と、鉉之助為助相談の上、乗馬を借用し、熊次郎をして騎馬大筒 準備の旨を伝へしめた。四ツ時鉉之助為助は山城守に面会し、山 城守自身の案内にて書院の庭へ出て、場所を一覧に及んだ所、北 手は天満橋を一面に見下し、至極の要害であるが、前面所所に梅 樹があつて見通しの邪魔になる故、伐払ふやうにと再度まで申述 べ、また南手島町の方は籾戚との堺に塀があり、塀笠から十四五 人も並打が出来るから、此処は控柱並びに松樹へ丸太を結び、そ の上へ武者走の板を渡せば十分であると申述べたが、混雑する計 で一向事が運ばない。仍て鉉之助は引率して来た同心共に命じ、 防禦の準備を為さしめ、書院の庭へ立戻つた。山城守が人夫を出 して天神橋を破壊せしめたのはこの時分である。


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