Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.11.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その135

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  五 騒乱 上 (6)
 改 訂 版


陣列   

京橋組は定番米津丹後守去年十一月に任命を受けたが未だ上阪せ ぬので、玉造口定番の預である、町奉行から但馬守へ援兵を依頼 し、但馬守から京橋組へ出兵を伝達したのも右の訳で、公用人畑 佐秋之助が鉉之助より一足先へ出たのは京橋組へ出兵の催促の為 であつた、然る所同心支配広瀬治左衛門馬場左十郎何分之を迷惑 がり東町奉行所へ来て鉉之助へ向ひ、当役所警固の儀御頭よりの 仰渡と雖も、元来銘々共は御城門を警衛するを本職とし、御門を 離れ、役所位の所で犬死同様の働を致すは一同迷惑千万、第一拙 者共も不承知につき、御相談に参つた、夫故鉄砲も持参仕らぬと の口上、其心は鉉之助をも味方に引入れ、町奉行所応援の請求を 謝絶しやうとの下心でであつたらしいが、鉉之助の返答は案に相 違し、御城警衛の本職は申すまでもなけれど、頭申付とあつては 生駒山を越しても出張致さねバならず、銘々共は頭申付により当 所へまゐり、御覧の如く打支度に及んだので御座るとあつた、す ると治左衛門ハ重ねて口を開き、頭御出馬といへば格別、左も無 くて銘々計当役所へ参り警固に従ふは、何か町奉行の下知に就く やうな次第である、先年出水の節町奉行より両組にて町廻を致し くれるやう、城代松平日向守殿へ内願ありし所、両組は大切の御 城警固の者、町奉行所へ貸す儀は組柄にも拘り難儀なりとの仰で、 沙汰止になつたと承り居る、其上縦令頭の申渡にても、承引仕り 難き事は再応申上げ、御沙汰替になつたる例も有れば、仰渡であ るとて一概にお断の出来ぬといふ儀もあるまじく、其為御相談に 参つたと話を進めた、然し鉉之助は承知せぬ、今日の儀は何分御 手前と拙者とは所存相違につき、御手前は御手前で御勝手次第に 為さるべく、別に当方に御相談に及び申さず、頭は追手上屋敷に 居らるれば、御手前から直接にお窺になつたらば宜しからうと突 撥る、何事によらず両組は只今まで相談の上にて致したれど、以 来は相談に及び申さず、左様御承知あれといへば、如何様とも御 勝手にと、彼一句此一句、語調も次第に荒くなつた所ヘ、幸ひ秋 之助が来て味方同士の口論も止み、治左衛門は引返して同心三十 人を連れ、東町奉行所門前へ遣つて来たが、肝要の治左衛門が雪 踏穿で持筒さへ持たぬ始末である、尤も以上の口論は玉造方即ち 鉉之助手記の咬菜秘記及玉造組与力同心働前御吟味に付明細書取 によつて書いたのであるから、京橋組の説く所を十分に尽して居 らぬかも知れぬが、大体に於て相違のある可き筈はない、治左衛 門の言ふ所は一理あるが、所謂杓子定規で応急の手段を知らぬと 評すべしだ。殊に此日京橋組には言語道断の振舞があつて、治左 衛門が出兵を迷惑がつたのも、或は卑怯の心からであるまいかと、 想像を運らし得る程である。

 京橋組の定番米津丹後守は去年十一月に任命せられたが未だ上 阪せぬので、玉造口定番の預である。町奉行から但馬守へ加勢を 依頼し、但馬守から京橋組へ出兵を伝達したのも右の訳で、公用 人畑佐秋之助が鉉之助より一足先へ出たのは京橋組へ出兵催促の 為であつた。然るに同組同心支配広瀬治左衛門同馬場左十郎両名 東町奉行所へ来て鉉之助へ向ひ、当役所警固の儀但馬守殿からの 御沙汰ではあるが、元来銘々共は御城門を警衛するを本職とし、 御門を離れ、役所位の所で犬死同様の働を致すは一同迷惑千万、 第一拙者共も不承知につき、御相談に参つた。それ故鉄砲も持参 仕らぬとの口上、内心は鉉之助を味方に引入れ、町奉行所応援の 請求を謝絶しようとの下心でであつたらしいが、鉉之助の返答は 案に相違し、御城警衛の本職は申すまでもなけれど、頭申付とあ つては生駒山を越しても出張致さねばならず、銘々共は頭申付に より当所へまゐり、御覧の如く発砲の支度に及んだので御座ると あつた。すると治左衛門は重ねて口を開き、頭御出馬といへば格 別、左も無くて銘々ばかり当役所へ参り、警固に従ふは、何か町 奉行の下知に就くやうな次第である。先年出水の節、両組にて町 廻を致しくれるよう、町奉行から城代松平日向守殿へ内願ありし 所、両組は大切の御城警固の者、町奉行所へ貸す儀は組柄にも拘 り難儀なりとの仰で、沙汰止になつたと承はる、加之縦令頭の御 申渡にても、承引仕り難き事は再応申上げ、御沙汰替になつた例 も有れば、御申渡とて一概にお断の出来ぬといふ儀もあるまじく、 そのため御相談に参つたと話を進めた。然し鉉之助は承知せぬ。 今日の儀は何分御手前と拙者とは所存相違につき、御手前は御手 前で御勝手次第に為さるべく、別に当方に御相談に及び申さず、 頭は追手上屋敷に居らるれば、御手前から直接にお伺になつたら ば宜しからうと突撥る。何事によらず両組は只今までは御相談の 上にて致したれど、以来は御相談に及び申さず、左様御承知あれ といへば、如何様とも御勝手次第にと、彼一句此一句、語調も次 第に荒くなつた所ヘ、幸ひ秋之助が来て口論も止み、治左衛門は 引返して同心三十人を連れ、東町奉行所門前へ遣つて来たが、肝 要の治左衛門が雪踏穿で持筒さへ持たぬ始末であつた。以上の口 論は玉造方の史料即ち鉉之助手記の咬菜秘記及び玉造組与力同心 働前御吟味に付明細書取によつて書いたのであるから、京橋組の 主張を十分に尽くして居らぬかも知れぬが、大体に於て相違のあ る可き筈はない。治左衛門の言ふ所も一理あるが、所謂杓子定規 で応急の手段を知らぬと評すべしだ。


坂本鉉之助「咬菜秘記」その17


「大塩平八郎」目次4/ その134/その136

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