淡路町の衝
突
金助
梅田源左衛
門
安田図書捕
縛
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大塩方は平野橋の東詰で砲撃に会ひ、一党離散して百余人となり、
先鋒の庄司義左衛門は負傷した、平野橋を西へ渡つてから、南へ
折れて淡路町を西下し、追捕方と並行に進んだが、少し早かつた
らしい、鉉之助等は八百屋町筋では賊の蔭も見ず、堺筋で漸く之
を認め、烈しく鉄砲を打出し、大塩方からも大砲を三発計打つた
といふ、玉造方で真先に進んだのは、鉉之助・為助・同心山崎弥
四郎・糟谷助蔵等である、鉉之助は一発打つと駈出して西側の紙
屋の戸口にあった紙荷を小楯にとり、丸込めを仕ながら敵の大砲
方を目指してゐると、東側の用水桶の蔭から鉉之助を狙つてゐる
者がある。之は金助という下辻村の猟師で、岡翁助の許へ逸早く
暴動の次第を告げた清五郎と同じやうに、兼々大塩邸へ出入をし
て特別に可愛がられ、天満に火事があつたら来い、参りませうと
約束し、今日は御褒美の小判を握つて来るといつて、早朝に大塩
邸へ駈付けた男である、為助は鉉之助が狙はれて居るのを見て、
二度まで声をかけたが通ぜぬ、金助が打つた丸は鉉之助の陣笠に
当り、為助が金助へ向けて打つた十匁玉は覘を外した。鉉之助は
最初から目当を付けてゐた敵の大砲方が、大砲の車台に付いて少
しづゝ西へ退くので、丸込を終つた時には町家が邪魔になつて狙
が付かぬ、西側に沿ふて十間計駈出して折敷いた刹那に、大砲方
は振返つてハツト顔色を変へたが、もう何様することも出来ぬ、
鉄砲の響と共に美事腰部を貫通せられて仰向に打倒れた、之は梅
田源左衛門といふ彦根の浪士と解つたが、何様いふ手続で大塩方
に一味したかは今に至るも不明である、辻へ出て死骸を改めると、
黒羽二重紅裏の小袖・八丈の下着・黒羅紗の羽織といふ打扮をな
し、着物の裾をおちぼからげに絡げ、股引も穿かず、素足に草鞋
穿、大小も相応の拵であつた、山城守は一には味方の勇気を鼓舞
し、また一には民心を鎮撫せんが為、従者に命じて源左衛門の首
を斬り、鎗先に貫いて持歩行かしめたが、一両日過ぎてから近所
の町人が、余り大男であるといつて尺を量つて見たら、焼爛れた
死骸の首の切口から爪先まで五尺あつたといふ、今一人北側に倒
れて居たは、賊卒体の者で名も知れぬ、四辻へ出て西の方を見れ
ば、もう大塩方ハ一人も居ず、たゞ市民が右往左往に狼狽奔走し
てゐる計、東の方を見れば火は間近く燃来り、路傍には敵の放棄
した武器が彼是ある、拾集めて見ると百目玉筒三挺車台附・巣口
四寸許の木砲弐挺内一挺は車台附・長持二棹・具足櫃二荷・火薬
入革葛籠篭十余箇・鎗三四本・小筒三挺・太鼓一箇・旗二本等で、
賊魁平八郎の持鎗も右遺失品の内にあるといふので、山城守は大
満足であつた、同心高橋弥兵衛が、逃後れて近傍の町家に隠れて
居る安田図書を捕縛したのも此時であつた。
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大塩方は平野橋の東詰で砲撃に会ひ、一党離散して百余人とな
り、先鋒の庄司義左衛門は負傷した。平野橋を西へ渡つてから、
南へ折れて淡路町を西下し、追捕方と並行に進んだが、少し早か
つたらしい。鉉之助等は八百屋町筋では賊の蔭も見ず、堺筋で漸
く之を認め、烈しく鉄砲を打出し、大塩方からも大砲を三発計打
つたといふ。玉造方で真先に進んだのは、鉉之助・為助・同心山
崎弥四郎・糟谷助蔵等である、鉉之助は一発打つと駈出して西側
の紙屋の戸口にあった紙荷を小楯にとり、丸込めを仕ながら敵の
大砲方を目指してゐると、東側の用水桶の蔭から鉉之助を狙つて
ゐる者がある。之は金助という下辻村の猟師で、岡翁助の許へ逸
早く暴動の次第を告げた清五郎と同じやうに、兼々大塩邸へ出入
をして特別に可愛がられ、天満に火事があつたら来い、参りませ
うと約束し、今日は御褒美の小判を握つて来るといつて、早朝に
大塩邸へ駈付けた男である。為助は鉉之助が狙はれて居るのを見
て、二度まで声をかけたが通ぜぬ。金助が打つた丸は鉉之助の陣
笠に当り、為助が金助を打つた十匁玉は覘を外した。鉉之助は最
初から狙を付けてゐた敵の大砲方が、大砲の車台に付いて少しづ
つ西へ退くので、玉込を終はつた時には町家が邪魔になつて狙が
付かぬ。西側に沿うて十間計駈出して折敷いた刹那に、大砲方は
振返つてハツと顔色を変へたが、もう何様することも出来ぬ、鉄
砲の響と共に美事腰部を貫通せられて仰向に打倒れた。之は梅田
源左衛門といふ彦根の浪士と解つたが、何様いふ手続で大塩方に
一味したかは今に至るも不明である。辻へ出て死骸を改めると、
黒羽二重紅裏の小袖・八丈の下着・黒羅紗の羽織といふ打扮で、
萌黄真田の襷萌黄真田の襷徒党の合印といふを掛け、着物の裾を
・・・・・・
おちぼからげに絡げ、股引も穿かず、素足に草鞋穿、大小も相応
の拵であつた。山城守は一つには味方の勇気を鼓舞し、また一つ
には民心を鎮撫せんが為、従者に命じて源左衛門の首を斬り、鎗
先に貫いて持歩行かしめたが、一両日過ぎてから近所の町人が、
余り大男であるといつて尺を量つて見たら、焼爛れた死骸の首の
切口から爪先まで五尺あつたといふ。今一人北側に倒れて居たは、
賊卒体の者で名も知れぬ。四辻へ出て西の方を見れば、もう大塩
方は一人も居ず、ただ市民が右往左往に狼狽奔走してゐるばかり、
東の方は一面の火で、路傍には敵の放棄した武器が散乱してゐる。
拾集めて見ると百目玉筒三挺車台附・巣口四寸許の木砲弐挺内一
挺は車台附・長持二棹・具足櫃二荷・火薬入革葛籠十余箇・鎗三
四本・小筒三挺、太鼓一箇・旗二本等で、首領平八郎の持鎗も右
遺失品の内にあつたといふので、山城守は大満足であつた。
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