諸藩の出兵 | 翻つて城中の景況を見るに、城代土井大炊頭は天満方面の失火尋 暴徒は淡路町で姿を隠し、未だ一人の巨魁も縛に就かぬ、大阪城 及町奉行所の警衛は愈々厳重となり、在阪蔵屋敷の面々は催促に 応じて町奉行所其他要所々々の警衛に当り、近国の諸大名は銘々 後詰の兵士を大阪へ繰出した、城代土井大炊頭は昼九ッ時と暮六 ッ時と本丸内を巡視すること二回に及び、目付中川半左衛門犬塚 太郎左衛門両名は交々城内を巡廻し、又数々城外へ出でて其刻刻 の報告を城代へ上申する役廻わ勤め、大手門の守備は大炊頭自ら 之を掌り、土俵を築き、其上に大砲二門を置き、別に二門を予備 タケタバ とし、門前には柵を結ひ、竹束を並ベ、番頭物頭は門内に控え、 足軽百人は具足を着し銃を携ヘて門の西手北向に陣取り、尼崎城 主松平遠江守忠栄の一番手は門の南手西向に陣を取る、京橋口 は定番米倉丹後守不在なるを以て、山里丸加番土井能登守仮にそ の衆を領し、守備の砲数は大手門と同じく、門外には岸和田城主 ナガトモ 岡部内膳正長和の一番手及び高槻城主永井飛弾守直与の兵あり、 玉造口には定番遠藤但馬守柵を結ひ鉄砲を並べ、青屋ロには加番 米津伊勢守、雁木坂には加番小笠原信濃守の馬印を立て、中小屋 加番井伊右京亮は遊軍として青屋口に屯し、大番頭菅沼織部正北 條遠江守は本丸に居る。諸勢皆具足を着し、抜身の鎗切火繩の鉄 砲を携へ、篝火は天を焦し、尼崎岸和田の二番手郡山淀の兵も追 々に繰出して来た、尼崎の一番手は家老用人目付より足軽仲間に 至るまで総勢三百三十余人、二番手を略々同数にて別に大砲隊あ り、夜九ッ時尼崎を発し、一番手同様大手へ詰め、その後京橋口 へ移り、又山城守の依頼にて守口吹田へ赴いた、岸和田の一番手 は物頭大目付以下総勢二百余人、二番手は四百余人、之は天王寺 辺に屯し、又郡山ハ一番手・二番手・三番手を合して総勢七百余 人を出したが、大阪から遠距離の為、廿日午後一二番手は大手に 進み、三番手は玉造口に屯することとなり、番場から玉造に陣を 移したる高槻と京橋口の淀とは兵数を詳にせぬ、堺奉行曲淵甲斐 守景山は十九日早朝外の用事にて来阪した儘城中に残り、配下の 与力同心が堺から駈付けてから、之を率ゐて西町奉行の役宅に入 り、伏見奉行加納遠江守久 は東町奉行の役宅に入り、又大阪諸 蔵屋敷役人もそれ\/出兵の命に接したが、大抵備付の銃は錆た り破損したりしてゐて用に立たず、又鉄砲はあつても弾薬が無い といふ始末、急に市中で買入れやうとしたが、十九日夜火薬販売 一切禁止の令下りたる為、今更如何とも仕難く、案山子同然弾薬 を持たずに銃を携へた者もあつた、かくて十九二十両日ハ混難の 裡に過ぎ、廿一日より各藩漸く兵を収めることとなつた。
| 大塩党は淡路町で姿を隠し、未だ一人の巨魁も縛に就かぬ。大 阪城及び町奉行所の警衛は愈々厳重となり、在阪蔵屋敷五十余家 は催促に応じて要所々々の警衛に当り、近国の諸大名は銘々後詰 の兵士を大阪へ繰出した。城代土井大炊頭は昼九ッ時と暮六ッ時 と本丸内を巡視すること二回、目付中川半左衛門犬塚太郎左衛門 両名は交々城内を巡廻し、また数々城外へ出でて状況を城代へ上 申する。大手門の守備は大炊頭自ら之を掌り、土俵を築き、大砲 タケタバ 二門を備へ、別に二門を予備とし、門前には柵を結び、竹束を並 ベ、番頭物頭は門内に控へ、足軽百人は具足を着し銃を携ヘて門 の西手北向に陣取り、尼崎城主松平遠江守忠栄の一番手は門の南 手西向に陣を取る。京橋口は定番米倉丹後守不在なるを以て、山 里丸加番土井能登守仮にその衆を領し、守備の砲数は大手門と同 じく、門外には岸和田城主岡部内膳正長和の一番手及び高槻城主 ナガトモ 永井飛弾守直与の兵あり。玉造口には定番遠藤但馬守柵を結ひ鉄 砲を並べ、青屋ロには加番米津伊勢守、雁木阪には加番小笠原信 濃守の馬印を立て、中小屋加番井伊右京亮は遊軍として青屋口に 屯し、大番頭菅沼織部正北條遠江守は本丸に居る。諸勢皆具足を 着し、抜身の鎗切火繩の鉄砲を携へ、篝火は天を焦し、尼崎岸和 田の二番手郡山淀の兵も追々に繰出して来た。尼崎の一番手は家 老・用人・目付より足軽仲間に至るまで総勢三百三十余人、二番 手を略々同数にて別に大砲隊あり、夜九ッ時尼崎を発し、一番手 同様大手へ詰め、その後京橋口へ移り、又山城守の依頼にて守口 吹田へ赴いた。岸和田の一番手は物頭大目付以下総勢二百余人、 二番手は四百余人、之は天王寺辺に屯し、又郡山は一番手・二番 手・三番手を合して総勢七百余人を出したが、大阪から遠距離の 為、廿日午後一二番手は大手に進み、三番手は玉造口に屯するこ ととなつた。番場から玉造に陣を移した高槻と京橋口の淀とは兵 数を詳にせぬ。堺奉行曲淵甲斐守景山は十九日早朝外の用事にて 来阪した儘城中に残り、配下の与力同心が堺から駈付けてから、 之を率ゐて西町奉行の役宅に入り、伏見奉行加納遠江守久 は東 町奉行の役宅に入つた。ここに在阪諸蔵屋敷役人の行動につき一 條の笑話がある。彼等は出兵の命に接したが、大抵備付の銃は錆 たり破損したりしてゐて用に立たず、仮に鉄砲はあつても弾薬が 無いといふ始末、急に市中で買入れようとしたが、十九日夜火薬 販売一切禁止の令が下りたため、今更如何とも仕難く、案山子同 然弾薬を持たずに銃を携へた者もあつたともいふ。かくて十九二 十両日は混難の裡に過ぎ、廿一日より各藩漸く兵を収めることと なつた。
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