Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.12.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その147

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  七 兵火 (3)
 改 訂 版


物価騰貴





疫病流行 

収容所の世話になつた人員は、山城守の届書に二月廿七日昼時迄 に凡そ千八百人程とあるのみで、最初より閉鎖に至るまでの延人 員は不明である。併しそれ以外に多数の罹災者があつた、是等の 罹災者並に幸に兵火を免れたる人々も、乱後の物慣騰貴に一方な らず迷惑したことは説明を俟たない、二月上旬百五拾七匁の肥後 米は四月に二百四拾七匁となり、五月に少しく下落せしも、六月 には三百三拾目といへる無比の相場を示し、小売相場は最高白米 一升三百六拾四文・麦二百六拾四文・大豆弐百八文・小豆弐百六 拾四文となつた、富者と雖も朝夕は粥を啜り、細民はたゞ露命を 繋ぐといふに過ぎず、大根・小豆・黒豆・豆腐殻・饂飩粉の類を 食するは上等の部、甚しきは糠又は豆の皮を食し、往来に行倒人 を見ることは一向珍しくない、加ふるに疫病流行し、死者夥しく、    センニチ 六月中千日の墓所にて毎日五六拾人を焼き、七月には千日・梅田・ 小橋の三墓所に深い穴を掘り、行倒人を投込んだといふ、但し此 流行病に対しては官民共に左程の注意を払はず、たゞ官より享保 十八年の疫病流行当時に示した応急薬法を、再び民間に示したの みであつた、今日の如く衛生上の思想が進まぬ時であるから無理 もないが、物価の暴騰を抑止する手段と細民賑恤の方法とに就い ては、公私とも一方ならず尽力した。

 収容所の世話になつた人員は、山城守の届書に二月廿七日昼時 迄に凡そ千八百人程とあるのみで、最初より閉鎖に至るまでの延 人員は不明である。併し収容所に入らぬ罹災者も多数あつたらう と思ふ。  是等の罹災者並びに幸に兵火を免れた人々が、乱後の物慣騰貴 に一方ならず迷惑したことは説明を俟たない。二月上旬百五拾七 匁の肥後米は四月に二百四拾七匁となり、五月に少しく下落した が、六月には三百三拾目に騰貴し、小売相場は最高白米一升三百 六拾四文・麦二百六拾四文・大豆二百八文・小豆二百六拾四文と なつた。富者と雖も朝夕は粥を啜り、細民はただ露命を繋ぐとい ふに過ぎず、大根・小豆・黒豆・豆腐殻・饂飩粉の類を食するは 上の部、甚だしきは糠又は豆の皮を食し、往来に行倒人を見るこ とは一向珍しくなくなつた。加ふるに疫病流行し、死者夥しく、    センニチ 六月中千日の墓所にて毎日五六十人を焼き、七月には千日・梅田・ 小橋の三墓所に深い穴を掘り、行倒人を投込んだといふ。但しこ の流行病に対しては官民共に左程の注意を払はず、ただ官より享 保十八年の疫病流行当時に示した応急薬法を、再び民間に示した のみであつた。今日の如く衛生上の思想が進まぬ時であるから已 むを得ないが、物価の暴騰を抑止する手段と細民賑恤の方法とに 就いては、公私とも一方ならず尽力した。


「大塩平八郎」目次4/ その146 /その148

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