Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.12.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その148

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  七 兵火 (4)
 改 訂 版

























間銀下附












賑恤


















施与の米銭
総額

大阪では家屋を建築修繕するに、大工木挽は中井家山村家配下の 者に限り、瓦は寺島家製造のもの・瓦葺は同人支配の者に限ると いふやうな厳しい規則があつたが、暴動後之を弛め、一方には本 年に限り畿内近江六ケ国の大工木挽を使用し、随意の船舶を以て 土砂を運搬し、又仲買の手を経ずして直接問屋より竹木類を買入 るゝを許し、又一方にハ大工左官等が規定以外の賃銀を貪るを禁 じた、是等は家屋新築の資力ある人々に対する保護で、細民の利 盆の為には、家主を戒めて法外に家賃を騰貴することなからしめ、 殊に上下を問はず、何人にも必要なる米其他の日用品に就いては、 近在の農家食料以外の麦を貯蓄するものは必ず売却せよ、米商人 にあらざる者猥りに近国に赴き、米麦等を糴買すべからず、搗米 屋は必ず白米小売直段を差札に明記し、買者も亦押買狼籍の挙動 あるべからずなどと、厳重なる取締令を発した、併し是等は消極                            アヒギン 的手段である、積極的手段としては、四月上旬より搗米屋に間銀 を下渡し、一人五合を限り廉価を以て販売せしめた、間銀とは時 価と売価との差銀で、官一び此事あつてより、餝屋六兵衛播磨屋 仁兵衛以下個人又は町中より間銀として醸出した米は、合計一千 四百余石に上ったとあれバ、廉売の石数も夥しいものであつたら う、間銀の下渡は多数の市民が恩恵に均霑する訳であるが、搗米 屋から白米の小買も出来ぬ窮民には、直接に米銭を施すより他に 手段は無い、三月城代大炊頭は、現米二千石を出して、三郷並に 兵庫西宮の窮民毎戸に白米二升八合を与え、同月加島屋作兵衛・ 加島屋作治郎・千草屋収五郎・平野屋仁兵衛・米屋伊太郎・小橋 屋一党等数拾名並に堂島新地外拾数町にて合計銭二万六千九百貫 文・金千疋・及米拾俵を醸出し、三郷毎戸に銭一貫文を分配し、 それから六月になつて、再び官から銭五万貫文を分ち、七月には 富商豪家の義損金をもって、窮民毎戸に銭四百文を施した。其他 町人の負担を軽くする為本年五月に上納すべき川浚冥加金を免除 したり、明年興行すべき勧進能を明後年に延期したり窮民に職業            メジルシヤマ を与へやうとて安治川口目印山の東手に船溜所を開鑿したりした 事共もあるが、今は省略に附する、要するに天保七年冬から本年 へかけ、富商豪家の施銭は都合三回に及び、其総額銭六万八千五 百弐拾六貫百文・銀三貫拾五匁・金弐百七拾九両三分・米千四百 石五斗・同拾俵とあり、義損者中加島屋作兵衛の壱万千六百貫文 辰巳屋久左衛門の九千四百貫文を両大関とし、一名千貫文以上の 者拾壱名を数へる、仮に金一両を銀六拾目・銭百文を銀九匁・米 一石を百五拾目として換算すれば、総額銀八百四拾七貫百九匁九 分余となり、莫大の金額と言はざるを得ぬ、かくの如く上下の尽 力により、景気は次第に恢復し、殊に本年大豊作といふ見込で、 米価は七月中旬百八十目台となり、其後ヂリ\/下にて、十一十 二月頃には八九十匁の間を上下してゐた。

■建築規則の緩和  大阪では家屋を建築修繕するに、大工木挽は中井家山村家配下 の者に限り、瓦は寺島家製造のもの、瓦葺は同人支配の者に限る といふやうな厳しい規則があつたが、暴動後之を弛め、一方には 本年に限り畿内近江六ケ国の大工木挽を使用し、随意の船舶を以 て土砂を運搬し、仲買の手を経ずして直接問屋より竹木類を買入 るるを許し、また一方には大工左官等が規定以外の賃銀を貪るを 禁じた。是等は家屋新築の資力ある人々に対する保護で、細民の 利盆の為には、家主を戒めて法外に家賃を騰貴することなからし め、殊に上下を問はず、何人にも必要なる米その他の日用品に就 いては、近在の農家食料以外の麦を貯蓄するものは必ず売却せよ、 米商人にあらざる者猥りに近国に赴き、米麦等を糴買すべからず、 搗米屋は必ず白米小売直段を差札に明記し、買ふ者も亦押買狼籍 の挙動あるべからずなどと、厳重な取締令を発した。併し是等は 消極的手段である。積極的手段としては、四月上旬より搗米屋に アヒギン 間銀を下渡し、一人五合を限り廉価をもって販売せしめた。間銀 とは時価と売価との差銀で、官一たび之を実施してより、餝屋六 兵衛播磨屋仁兵衛以下個人又は町中より間銀に代えて醸出した米 は、合計一千四百余石に上つたとあれば、廉売の石数も夥しいも のであつたであらう。間銀の下渡は多数の市民が恩恵に均霑する 訳であるが、搗米屋から白米の小買も出来ぬ窮民には、直接に米 銭を施すより他に手段は無い。三月城代大炊頭は、現米二千石を 出して三郷並びに兵庫西ノ宮の窮民毎戸に白米二升八合を与え、 同月加島屋作兵衛・加島屋作治郎・千草屋収五郎・平野屋仁兵衛・ 米屋伊太郎・小橋屋一党等数拾名並びに堂島新地外拾数町にて合 計銭二万六千九百貫文・金千疋・米拾俵を醸出し、三郷毎戸に銭 一貫文を分配し、それから六月になって、再び官から銭五万貫文 を分ち、七月には富商豪家の義損金をもって、窮民毎戸に銭四百 文を施した。この外町人の負担を軽くするため本年五月に上納す べき川浚冥加金を免除したり、明年興行すべき勧進能を明後年に                        メジルシヤマ 延期したり、窮民に職業を与へようとして安治川口目印山の東手 に船溜所を開鑿したりした事共もあるが、今は省略に附する。要 するに天保七年冬から本年へかけ、富商豪家の施銭は都合三回に 及び、総額銭六万八千五百弐拾六貫百文・銀三賞拾五匁・金弐百 七拾九両三分・米千四百石五斗・同拾俵とあり、義損者中加島屋 作兵衛の壱万千六百貫文、辰巳屋久左衛門の九千四百貫丈を両大 関とし、一名千貫文以上の者拾壱名を数へる。仮に金一両を銀六 拾目、銭百文を銀九匁、米一石を百五拾目として換算すれば、総 額銀八百四拾七貫百九匁九分余となり、莫大の金額と言はざるを 得ぬ。かくの如く上下の尽力により、景気は次第に恢復し、殊に 本年大豊作といふ見込で、米価は七月中旬百八十目台となり、爾 来ヂリヂリ下にて、十一十二月頃には八九十匁の間を上下するに 至つた。


「御触」(乱発生後)その3
「浮世の有様 巻之六」 その3


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