罹災者番場
に集る
収容所の移
転
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此度の火災は尋常の放火出火と違ひ、大塩党は到る処に火矢砲碌
玉を乱射した為、火元は八方に分れ、従つて市民の恐惶狼狽は尋
常一様ならず、家財什宝を棄置き着のみ着の儘にて逃去つたので
ある、剰へ廿日夜より翌日正午へ亘り大風雨と当時の記録に見え
るから、罹災者の困難は一層酷かつたと思はれる、大手前の野原
バンバ
を番場といひ、諸方より此所を指して落ち来る人々は潮の押寄す
るが如く、盥の中に蹲れる産婦あれバ、莚の上に横臥せる病人あ
り、疱瘡流行の折柄とて之に悩める小児も多く、彼等が一斉に挙
ぐる苦悶坤吟の声は相合して玉造口土橋まで鬨の声の如く聞えた
とある、十九日朝より淡路町の衝突に至るまで、両町奉行ハ一意
徒党の鎮圧に熱中したが、衝突後は離散した与党を物色するのみ
か、消防にも亦罹災者の賑恤にも従事せねばならぬ、先づ道頓堀
の芝居小屋を以て親戚故旧なき類焼者の収容所としたは宜いが、
荷物を携へることを許さないので、入り度も入られぬ者が多い、
其処で廿一日に及び、今回の火災に罹らぬ三郷町々中から、御救
掛町なるものを設け、御救掛町をして荷物の番を為さしむることゝ
し、罹災者は安じて収容所に赴くやうになつた、併し道頓堀の収
容所は咄嵯の間に成り、久しく此地に罹災者を置く訳に行かない
ので、新に天王寺御蔵跡・天満橋の南詰東元堺町・及天満橋北詰
に収容所を設け、御蔵跡にあるものは南組、天満橋の南詰東元堺
町にあるものは北組、北詰にあるものは天満組にて一切を世話し、
毎組の掛町其任に当り、掛町にあらざる町々よりは町代二名人足
二名を出し、夜分のみ掛町に代らせた、併し何時まで官より衣食
を給しても際限なく、却て遊民を養成する傾があるので、三月上
旬惣年寄より、場内に居る者ハ銘々一日も早く職業を求めて自活
せよと諭し、また一般市民に対しては、彼等にして奉公口を求め
或は家を借らんとする者ある時は成るべく便宜を与ヘ、収容所に
ありしといふを口実とし、無下に奉公を望む者を謝絶し、或は不
法の家賃を貪つては相成らぬと達したが、収容所の閉鎖は実に是
歳九月廿七日であつた。
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此度の火災は尋常の放火出火と違ひ、大塩党は到る処に火矢砲碌
玉を乱射した為、火元は八方に分れ、従つて市民の恐惶狼狽は尋
常一様ならず、家財什宝を棄置き、着のみ着の儘にて逃去つたの
である。剰へ二十日夜より翌日正午へ亘り大風雨と当時の記録に
見えるから、罹災者の困難は一層酷かつたと思はれる。大手前の
バンバ
野原を番場といひ、諸方より此処を指して落ち来る人々は潮の押
寄するが如く、盥の中に蹲れる産婦あれば、莚の上に横臥せる病
人あり、疱瘡流行の折柄とて之に悩める小児も多く、彼等が一斉
に挙ぐる苦悶坤吟の声は相合して玉造口土橋まで鬨の声の如く聞
えたとある。
■収容所
■ その移転
十九日朝より淡路町の衝突に至るまで、両町奉行は一意徒党の
鎮圧に熱中したが、衝突後は離散した与党を物色するのみか、消
防にも亦罹災者の賑恤にも従事せねばならぬ。先づ道頓堀の芝居
小屋を以て親戚故旧なき類焼者の収容所としたは宜いが、荷物を
携へることを許さないので、入り度も入られぬ者が多い。そこで
廿一日に及び、今回の火災に罹らぬ三郷町々中から、御救掛町な
るものを設け、御救掛町をして荷物の番を為さしむることとし、
罹災者は安んじて収容所に赴くやうになつた。併し道頓堀の収容
所は咄嵯の間に成り、久しく罹災者を置く訳に行かないので、新
に天王寺御蔵跡・天満橋の南詰東元堺町・及び天満橋北詰に収容
所を設け、御蔵跡にあるものは南組、天満橋の南詰東元堺町にある
ものは北組、北詰にあるものは天満組にて一切を世話し、毎組の
掛町その任に当り、掛町にあらざる町々よりは町代二名人足二名
を出し、夜分のみ掛町に代らせた。併し何時まで官より衣食を給
しても際限なく、却て遊民を養成する傾があるので、三月上旬惣
年寄より、場内に居る者は銘々一日も早く職業を求めて自活せよ
と諭し、また一般市民に対しては、彼等にして奉公口を求め或は
家を借らんとする者ある時は成るべく便宜を与ヘ、収容所にあり
しといふを口実とし、無下に奉公を望む者を謝絶し、或は不法の
家賃を貪つては相成らぬと達したが、収容所の閉鎖は実に是歳九
月廿七日であつた。
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