Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.12.31

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その150

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  八 末路 (2)
 改 訂 版


平八郎等の
遁路




















一行分離

鉉之助は淡路町堺筋の衝突後、直に辻に出て西方を観たが賊徒は 居なかつたとある、居ないも道理、平八郎は所詮敵し難しと見る や、銘々随意に立去るべしと命じ、重立ちたる面々は東方即ちも と来た道筋へ引返すこと半町計にして傍の民家に入り、裏塀を壊 つて平野町へ出で、避難者に紛れて東横堀より天神橋の東なる八 軒屋へ出た、丁度七ッ時頃で、一行は平八郎父子・済之助・良左 衛門・義左衛門・孝右衛門・忠兵衛・源右衛門・利三郎・郡次・ 九右衛門・三平・済之助若党周次・作兵衛の十四人である、彼等 は河岸に繋いである小船を見付け、これ幸と飛乗り、船頭無宿直 吉を脅して中流に出で、着込鎗等を水中に投じ、大川筋を上下し てゐた、大阪では火事の時船で荷物を運ぶ故、川中を彷徨してゐ ても誰も径む者は無い、直吉が上陸して呉れろと度々逼るので、 平八郎は九右衛門に命じ、彼に金弐両を与へ、尚川中に漂ひなが ら行先の相談に及んだ所、かくなる上は厳重の手当あること必定、 拙者は火中に入り自滅すべき覚悟なり、忠兵衛殿には迷惑ながら 此次第をゆう・みねに話し、両人に自殺を勧められたしと平八郎 が言ひ切つたので、忠兵衛は詮方なく作兵衛と共に上陸した、平 八郎は言葉を改め、同志の者は格別、逃延たき者は勝手次第上陸 せよと申渡し、済之助先づ若党周次に暇を遣し、六ッ時頃より同 人並に源右衛門・利三郎・郡次・九右衛門追々に立去り、平八郎 以下残る者共は一同東横掘の新築地より上陸し、往来の人影なき 場所に集り、再び行先を相談した、然るに平八郎は存命の所存な く飽まで自滅の覚悟なりといふのを、良左衛門済之助等言を尽く して諌め、然らば一旦遠国へ落延びやうと、漸く納得して四ッ橋 まで来たが、斯様な姿にては見咎めらるゝ恐ありと、一同腰に帯 したる刀を水中に投込み、脇差計となり、行先の心当もなく下寺 町まで彷徨ひ来た、其節平八郎は孝右衛門三平に向ひ、再三勘弁 致して此迄参りたるも、迚も落延びること覚束なければ、同人父 子済之助等は火中に入り焼死すべし、両人は百姓の身、如何様と も身を忍び、一命を保てと諭し、三平に金五両を渡して袂を分ち、 十四人の一行中残るは平八郎父子・済之助・良左衛門・義左衛門 の五人となり、寺町筋を北或は西の方角に歩み、火事場に接近し たが、何分多人数混雑の際とて一同火中する機会もなく、彼是立 廻り居る内、義左衛門は平八郎等四人と逸れた、此所までは許定 所に於ける三平の吟味書、及町奉行所に於ける孝右衛門義左衛門 の申口で解るが、これから平八郎父子が油掛町美吉屋五郎兵衛方 へ落着くまでの道筋はやや明瞭を闕いてゐる。

 鉉之助は淡路町堺筋の衝突後、直に辻に出て西方を観たが賊徒 は居なかつたとある。居ないも道理、平八郎は所詮敵し難しと見 るや、銘々随意に立去るべしと命じ、重立つた面面は東方即ちも と来た道筋へ引返すこと半町計にして傍の民家に入り、裏塀を壊 つて平野町へ出で、避難者に紛れて東横堀より天神橋の東に当る 八軒屋へ出た。丁度七ッ時頃で、一行は平八郎父子・済之助・良 左衛門・義左衛門・孝右衛門・忠兵衛・源右衛門・利三郎・郡次・ 九右衛門・三平・済之助若党周次・大工作兵衛の十四人である。 彼等は河岸に繋いである小船を見付け、これ幸と飛乗り、船頭無 宿直吉を脅して中流に出で、着込鎗等を水中に投じ、大川筋を上 下してゐた。大阪では火事の時船で荷物を運ぶ故、川中を彷徨し てゐても誰も径しむ者は無い。直吉が上陸して呉れろと度々逼る ので、平八郎は九右衛門に命じ、彼に金弐両を与へ、尚川中に漂 ひながら行先の相談に及んだ。平八郎は先づ忠兵衛に向ひ、かく なる上は厳重の手当あること必定、拙者は火中に入り自滅すべき 覚悟なり、忠兵衛殿には迷惑ながらこの次第をゆう・みねに話し、 両人に自殺を勧められたしと言ふので、忠兵衛は詮方なく作兵衛 と共に上陸した、次いで平八郎から、同志の者は格別、逃延たき 者は勝手次第上陸せよと申渡し、済之助から若党周次に暇を遣は し、同人並びに源右衛門・利三郎・郡次・九右衛門は六ッ時頃よ り追々に立去り、平八郎以下残る者共は一同東横掘の新築地より 上陸し、往来の人影なき場所に集り、再び行先を相談した。然る に平八郎は存命の所存なく飽まで自滅の覚悟なりといふのを、良 左衛門済之助等言を尽くして諌め、然らば一旦遠国へ落延びよう と、漸く納得して四ッ橋まで来たが、斯様な姿では見咎めらるる 恐ありと、一同腰に帯した刀を水中に投込み、脇差計となり、行 先の心当もなく下寺町まで彷徨ひ来た。その節平八郎は孝右衛門 三平に向ひ、再三勘弁致して此迄参りたるも、迚も落延びること 覚束なければ、同人父子済之助等は火中に入り焼死すべし、両人 は百姓の身、如何様とも身を忍び、一命を保てと諭し、三平に金 五両を渡して袂を分ち、十四人の一行中残るは平八郎父子・済之 助・良左衛門・義左衛門の五人となり、寺町筋を北或は西の方角 に歩み、火事場に接近したが、何分多人数混雑の際とて一同火中 する機会もなく、彼是立廻り居る内、義左衛門は平八郎等四人と ハグ 逸れた。此所までは許定所に於ける三平の吟味書、及び町奉行所 に於ける孝右衛門義左衛門の申口で解るが、これから平八郎父子 が油掛町美吉屋五郎兵衛方へ落着くまでの道筋はやや明瞭を闕い てゐる。


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