瀬田済之助
渡辺良左衛門
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廿二日河内高安郡恩知村の百姓が同村山中にて武士風の縊死者を
発見し、領主稲葉丹後守の役所へ届出でた、東組同心与力中村四
郎五郎出張の上検死に及び、正しく瀬田済之助と判明し、廿五日
塩詰の死骸は高原溜預となり、又同日済之助同様の取扱となつた
渡辺良左衛門の死骸は、河内志紀郡田井中村にて発見せられた、
之は立派に腹を切り、且つ頸部に余程大きな刀疵があつたといふ、
済之助の縊死は武士にあるまじきやう聞えるが、百姓家で休息睡
眠中、家内近辺の者共大阪残党と見て取り、先づ大小を取上げ、
引続いて捕縛しやうとしたので急に逃出したとあれば、縊死も已
むを得なかつたのであらう、但し済之助が何時如何なる場所で平
八郎等と別れたか、相談の上であるか、或ハまた偶相失したかは
不明である、良左衛門の頸部の疵は自ら刎ねようとした為か、或
は何人かゞ介錯に立つたか、介錯人があつたとすれば平八郎父子
であらうとは、誰しも想像する所であるが、美吉屋五郎兵衛の申
口を見ると果してその通りで、彼等三人は大和を指して落行くに
決し、それには姿を変へるが必要と、途中で剃髪して僧体となり、
昼夜となく足に任せて間道を歩行いたが、良左衛門は疲労甚だし
くして行歩捗々しからず、却て足手纏となるので、平八郎より捨
身を勧め、本人得心の上脇差を以て殺害に及び、自滅の体に取繕
つたとある、危に臨んで部下を見殺にするは良将の潔とせざる所
だ、然るを之は自ら手を下して良左衛門わ殺したとある、若し此
一事を真とせば、文武の師又は一党の巨人魁として平八郎の価値
は零であるが、事実は全く之に反し、疲労の為恩師の先途を見届
くる能はざるを根み、良左衛門自ら立派に屠腹したので、彼は涙
ながらに介錯したのであらう、それで無けれバ良左衛門が切腹を
して居るのが解らぬ、町奉行所の申口又は評定所の吟味書を通じ
て、何事によらず平八郎を悪逆無道の人と思はせる風の筆法が見
えるのは遣憾至極である。「平八郎一件御含迄に申上候書付」と
題する跡部山城守の書上に、和州太子堂村の百姓鶴吉が風体怪し
き三人連の坊主に斬られ、深手を負ふたとあるは、五郎兵衛の申
口と能く符合して居る。
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廿二日河内高安郡恩知村の百姓が同村山中にて武士風の縊死者
を発見し、領主稲葉丹後守の役所へ届出でた。東組同心与力中村
四郎五郎出張の上検死に及び、正しく瀬田済之助と判明し、廿五
日塩詰の死骸は高原溜預となり、同日済之助同様の取扱となつた
渡辺良左衛門の死骸は、河内志紀郡田井中村にて発見せられた。
之は立派に腹を切り、且つ頸部に余程大きな刀疵があつたといふ。
済之助の縊死は武士にあるまじきやう聞えるが、百姓家で休息
睡眠中、家内近辺の者共大阪残党と見て取り、先づ大小を取上げ、
引続いて捕縛しようとしたので急に逃出したとあれば、縊死も已
むを得なかつたのであらう。但し済之助が何時如何なる場所で平
八郎等と別れたか、相談の上であるか、或はまた偶々相失したか
クビハ
は不明である。良左衛門の頸部の疵は自ら刎ねようとした為か、
或は何人かが介錯に立つたか、介錯人があつたとすれば平八郎父
子であらうとは、誰しも想像する所であるが、美吉屋五郎兵衛の
申口を見ると果してその通りで、彼等三人は大和を指して落行く
に決し、それには姿を変へるが必要と、途中で剃髪して僧体とな
り、昼夜となく足に任せて間道を歩行いたが、良左衛門は疲労甚
だしくして行歩捗々しからず、却つて足手纏となるので、平八郎
より捨身を勧め、本人得心の上脇差を以て殺害に及び、自滅の体
に取繕つたとある。若し之を事実とせば、一党の首領として平八
郎の価値は皆無であるが、事実は全く之に反し、疲労のため恩師
の先途を見届くる能はざるを根み、良左衛門自ら立派に屠腹した
のを、彼は涙ながらに介錯したのであらう。それで無ければ良左
衛門が切腹をして居るのが解らぬ。町奉行所の申口又は評定所の
吟味書を通じて、何事によらず平八郎を悪逆無道の人と思はせる
風の筆法が見えるのは遣憾至極である。
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