Я[大塩の乱 資料館]Я
2007.1.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その153

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  八 末路 (5)
 改 訂 版




白井孝右衛門
杉山三平

十九日の乱暴に加つた東組与力同心の末路は以上の如くで、次に は八軒屋で大塩父子と同船した他の人々の行衛に移らう、白井孝 右衛門は下寺町辺にて一行と別れ、杉山三平同伴の上河内を差し て落ちた、之は同国渋河郡大蓮寺村大蓮寺の隠居所に居る伯父正 方を目当にしたので、到着したは夜九ッ時頃である、深更の訪問 といひ、且は到着早々湯漬を所望するなど様如何にも怪しく、正 方より其次第を尋ねると、今朝天満表出火につき、大塩先生へ御 見舞に上りし処、救民の大義とやらにて先生御自身乱暴を行れ、 已むを得ず加入致せしが、一同捕方に打立てられ、命辛々逃まゐ りたり、此上は姿を隠すより外なく、剃刀を貸し給はれと言はれ、 吃驚しながらも肉親の間柄、召連訴も出来難く、生憎手許に剃刀 なしとて鋏を貸遣し、尚孝右衛門へは有合の袈裟・頭巾・観音経 一巻、三平へは袖無羽織を与へた、両人は右の鋏にて互に髪を剪 み、高野登山の道筋を尋ねて正方方を辞したが、高野へ上らず、 道を転じて伏見に向ひ、廿日夜五ッ時過豊後橋橋上にて召捕られ、 一応伏見奉行加納遠江守の手で取調の上、廿五日大阪へ引渡とな つた、僅二人の囚人を護送するに、指図役以下与力・小頭・足軽・ 床の者等六拾余人、三拾石船三艘に分乗し、「召捕人ハ網乗物の 儘乗船中え挟、左右弐艘にて相固メ、壱艘の内鉄砲二挺つゝ玉薬 切火縄にて囲、淀川筋押行候有様、誠に近代未聞、晴の御引渡の 役相勤候所は、気味能又気味悪敷差添下坂仕候」と、当日指図役 であつた遠江守家来小池要の消息に見える。

 十九日の挙兵に加はつた東組与力同心の末路は以上の如くで、 次には八軒屋で大塩父子と同船した他の人々の行衛に移らう。  白井孝右衛門は下寺町辺にて一行と別れ、杉山三平同伴の上河 内を差して落ちた。之は同国渋河郡大蓮寺村大蓮寺の隠居所に居 る伯父正方を目当にしたので、到着したは夜九ッ時頃である。深 更の訪問といひ、且つ到着早々湯漬を所望するなど如何にも怪し いので、正方から次第を尋ねると、今朝天満表出火につき、大塩 先生へ御見舞に上つた処、救民の大義とやらにて先生御自身人数 を指図して乱暴を行はれ、已むを得ず加入致せしが、一同捕方に 打立てられ、命辛々逃まゐつた。この上は姿を隠すより外なく、 剃刀を貸し給はれと言はれ、吃驚しながらも肉親の間柄、召連訴 も出来難く、生憎手許に剃刀なしとて鋏を貸遣はし、尚孝右衛門 へは有合の袈裟・頭巾・観音経一巻、三平へは袖無羽織を与へた。 両人は右の鋏にて互に髪を剪み、高野登山の道筋を尋ねて正方方 を辞したが、高野へは上らず、道を転じて伏見に向ひ、二十日夜 五ッ時過豊後橋橋上にて召捕られ、一応伏見奉行加納遠江守の手 で取調の上、廿五日大阪へ引渡となつた。僅二人の囚人を護送す るに、指図役以下与力・小頭・足軽・床の者等六十余人、三拾石 船三艘に分乗し、「召捕人は網乗物の儘乗船、中え挟、左右弐艘 にて相固め、壱艘の内鉄砲二挺つゝ玉薬切火縄にて囲、淀川筋押 行候有様、誠に近代未聞、晴の御引渡の役相勤候所は、気味能又 気味悪敷差添下坂仕候」と、当日指図役であつた遠江守家来小池 要の消息に見える。


『塩逆述』巻之四 その5−1


「大塩平八郎」目次4/ その152/その154

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