白井孝右衛門
杉山三平
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十九日の乱暴に加つた東組与力同心の末路は以上の如くで、次に
は八軒屋で大塩父子と同船した他の人々の行衛に移らう、白井孝
右衛門は下寺町辺にて一行と別れ、杉山三平同伴の上河内を差し
て落ちた、之は同国渋河郡大蓮寺村大蓮寺の隠居所に居る伯父正
方を目当にしたので、到着したは夜九ッ時頃である、深更の訪問
といひ、且は到着早々湯漬を所望するなど様如何にも怪しく、正
方より其次第を尋ねると、今朝天満表出火につき、大塩先生へ御
見舞に上りし処、救民の大義とやらにて先生御自身乱暴を行れ、
已むを得ず加入致せしが、一同捕方に打立てられ、命辛々逃まゐ
りたり、此上は姿を隠すより外なく、剃刀を貸し給はれと言はれ、
吃驚しながらも肉親の間柄、召連訴も出来難く、生憎手許に剃刀
なしとて鋏を貸遣し、尚孝右衛門へは有合の袈裟・頭巾・観音経
一巻、三平へは袖無羽織を与へた、両人は右の鋏にて互に髪を剪
み、高野登山の道筋を尋ねて正方方を辞したが、高野へ上らず、
道を転じて伏見に向ひ、廿日夜五ッ時過豊後橋橋上にて召捕られ、
一応伏見奉行加納遠江守の手で取調の上、廿五日大阪へ引渡とな
つた、僅二人の囚人を護送するに、指図役以下与力・小頭・足軽・
床の者等六拾余人、三拾石船三艘に分乗し、「召捕人ハ網乗物の
儘乗船中え挟、左右弐艘にて相固メ、壱艘の内鉄砲二挺つゝ玉薬
切火縄にて囲、淀川筋押行候有様、誠に近代未聞、晴の御引渡の
役相勤候所は、気味能又気味悪敷差添下坂仕候」と、当日指図役
であつた遠江守家来小池要の消息に見える。
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十九日の挙兵に加はつた東組与力同心の末路は以上の如くで、
次には八軒屋で大塩父子と同船した他の人々の行衛に移らう。
白井孝右衛門は下寺町辺にて一行と別れ、杉山三平同伴の上河
内を差して落ちた。之は同国渋河郡大蓮寺村大蓮寺の隠居所に居
る伯父正方を目当にしたので、到着したは夜九ッ時頃である。深
更の訪問といひ、且つ到着早々湯漬を所望するなど如何にも怪し
いので、正方から次第を尋ねると、今朝天満表出火につき、大塩
先生へ御見舞に上つた処、救民の大義とやらにて先生御自身人数
を指図して乱暴を行はれ、已むを得ず加入致せしが、一同捕方に
打立てられ、命辛々逃まゐつた。この上は姿を隠すより外なく、
剃刀を貸し給はれと言はれ、吃驚しながらも肉親の間柄、召連訴
も出来難く、生憎手許に剃刀なしとて鋏を貸遣はし、尚孝右衛門
へは有合の袈裟・頭巾・観音経一巻、三平へは袖無羽織を与へた。
両人は右の鋏にて互に髪を剪み、高野登山の道筋を尋ねて正方方
を辞したが、高野へは上らず、道を転じて伏見に向ひ、二十日夜
五ッ時過豊後橋橋上にて召捕られ、一応伏見奉行加納遠江守の手
で取調の上、廿五日大阪へ引渡となつた。僅二人の囚人を護送す
るに、指図役以下与力・小頭・足軽・床の者等六十余人、三拾石
船三艘に分乗し、「召捕人は網乗物の儘乗船、中え挟、左右弐艘
にて相固め、壱艘の内鉄砲二挺つゝ玉薬切火縄にて囲、淀川筋押
行候有様、誠に近代未聞、晴の御引渡の役相勤候所は、気味能又
気味悪敷差添下坂仕候」と、当日指図役であつた遠江守家来小池
要の消息に見える。
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