西村七右衛門
剛嶽
植松周次
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西村七右衛門事利三郎の姉ことは堺北糸屋町医師寛輔の女房であ
る、寛輔は十九日利三郎の母の病気治療のために弓削村に赴き、
夜四ッ時頃帰宅して見ると利三郎がゐる、段々話を聞けば、平八
郎に脅され、止むを得ず徒党に加つたとのこと、然らば罪も軽け
れば自訴せよと女房共々言葉を尽して勧めたが聞入れず、知合の
方へ添手紙をして呉れろと達ての願に、寛輔夫婦も情に牽かされ、
一書を伊勢飯高郡垣鼻村海会寺柏宗宛に認め、此者は身持放埓に
つき剃髪致させたれバ、何分弟子として教化に与りたく、追て寛
輔自身罷り出でゝ委細御話に及ぶと書いた、海会寺は黄檗派の禅
寺で、住持柏宗の外に剛嶽といふ所化がある、利三郎は改名して
玄達と名乗り、廿五日八ッ時頃右の手紙を持参し、剛嶽の取次を
以て柏宗に呈し、暫時厄介に為つて居つたが、其内彼は別して剛
嶽と懇意になり、大塩乱に関係したる顛末を明し、両人して寛輔
の叔父なる仙台大念寺職投伍を尋ねやうと約束し、三月十七日朝
剛岳は銭箱にある金弐両を奪取つて津に駈落し、翌十八日利三郎
も亦寺を辞して津に向ひ、両人同道にて四月七日大念寺へ着いた、
然るに大念寺の住職は両人の宿泊を肯ぜず、金弐朱と米弐升とを
出し、之にて何方へなりと立退けとある、止むなく江戸に帰り、
橋本町一丁目願人冷月の弟子となり、利三郎は別善と改名し、剛
岳と共に日々托鉢に出掛けてゐたが、五月に入つてから流行病に
冒され、同年九月に病死したので、冷月の弟子分に取拵へ、同人
の頼寺浅草遍照院の境内に土葬して仕舞つた。
済之助の若党植松周次は、主人より暇を貰ゐ、上陸してから偶然
中間の浅佶に出会ひ、両人同道して大和に赴き、また袂を分つて
方々を逃廻つて居る中京都で召捕られた。
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西村七右衛門事利三郎の姉ことは堺北糸屋町医師寛輔の女房で
ある。寛輔は十九日利三郎の母の病気治療の為に弓削村に赴き、
夜四ッ時頃帰宅して見ると利三郎がゐる。段々話を聞けば、平八
郎に脅され、止むを得ず徒党に加はつたとのこと、然らば罪も軽
ければ自訴せよと、女房共々言葉を尽くして勧めたが聞入れず、
知合の方へ添手紙をして呉れろと達ての願に、寛輔夫婦も情に牽
かされ、一書を伊勢飯高郡垣鼻村海会寺柏宗宛に認め、この者は
身持放埓につき剃髪致させたれば、何分弟子として教化に与りた
く、追て寛輔自身罷り出でゝ委細御話に及ぶと書いた。海会寺は
黄檗派の禅寺で、住持柏宗の外に剛嶽といふ所化がゐる。利三郎
は改名して玄達と名乗り、廿五日八ッ時頃右の手紙を持参し、剛
嶽の取次を以て柏宗に呈し、暫時厄介に為つて居つたが、間もな
く彼は別して剛嶽と懇意になり、大塩乱に関係したる顛末を打明
け、両人して寛輔の叔父に当る仙台大念寺職投伍を尋ねやうと約
束し、三月十七日朝剛岳は銭箱にある金弐両を奪取つて津に駈落
し、翌十八日利三郎も亦寺を辞して津に向ひ、両人同道にて四月
七日大念寺へ着いた。然るに大念寺の住職は両人の宿泊を肯んぜ
ず、金弐朱と米弐升とを出し、之にて何方へなりと立退けとある。
止むなく江戸に帰り、橋本町一丁目願人冷月の弟子となり、利三
郎は別善と改名し、剛岳と共に日々托鉢に出掛けてゐたが、五月
にはいつてから流行病に冒され、同年九月に病死したので、冷月
の弟子分に取拵へ、同人の頼寺浅草遍照院の境内に土葬して仕舞
つた。
済之助の若党植松周次は、主人より暇を貰ひ、上陸してから偶
然中間の浅佶に出会ひ、両人同道して大和に赴き、また袂を分つ
て方々を逃廻つて居る中、京都で召捕られた。
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