Я[大塩の乱 資料館]Я
2007.1.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その155

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  八 末路 (7)
 改 訂 版


西村七右衛門














剛嶽





















植松周次

西村七右衛門事利三郎の姉ことは堺北糸屋町医師寛輔の女房であ る、寛輔は十九日利三郎の母の病気治療のために弓削村に赴き、 夜四ッ時頃帰宅して見ると利三郎がゐる、段々話を聞けば、平八 郎に脅され、止むを得ず徒党に加つたとのこと、然らば罪も軽け れば自訴せよと女房共々言葉を尽して勧めたが聞入れず、知合の 方へ添手紙をして呉れろと達ての願に、寛輔夫婦も情に牽かされ、 一書を伊勢飯高郡垣鼻村海会寺柏宗宛に認め、此者は身持放埓に つき剃髪致させたれバ、何分弟子として教化に与りたく、追て寛 輔自身罷り出でゝ委細御話に及ぶと書いた、海会寺は黄檗派の禅 寺で、住持柏宗の外に剛嶽といふ所化がある、利三郎は改名して 玄達と名乗り、廿五日八ッ時頃右の手紙を持参し、剛嶽の取次を 以て柏宗に呈し、暫時厄介に為つて居つたが、其内彼は別して剛 嶽と懇意になり、大塩乱に関係したる顛末を明し、両人して寛輔 の叔父なる仙台大念寺職投伍を尋ねやうと約束し、三月十七日朝 剛岳は銭箱にある金弐両を奪取つて津に駈落し、翌十八日利三郎 も亦寺を辞して津に向ひ、両人同道にて四月七日大念寺へ着いた、 然るに大念寺の住職は両人の宿泊を肯ぜず、金弐朱と米弐升とを 出し、之にて何方へなりと立退けとある、止むなく江戸に帰り、 橋本町一丁目願人冷月の弟子となり、利三郎は別善と改名し、剛 岳と共に日々托鉢に出掛けてゐたが、五月に入つてから流行病に 冒され、同年九月に病死したので、冷月の弟子分に取拵へ、同人 の頼寺浅草遍照院の境内に土葬して仕舞つた。 済之助の若党植松周次は、主人より暇を貰ゐ、上陸してから偶然 中間の浅佶に出会ひ、両人同道して大和に赴き、また袂を分つて 方々を逃廻つて居る中京都で召捕られた。

 西村七右衛門事利三郎の姉ことは堺北糸屋町医師寛輔の女房で ある。寛輔は十九日利三郎の母の病気治療の為に弓削村に赴き、 夜四ッ時頃帰宅して見ると利三郎がゐる。段々話を聞けば、平八 郎に脅され、止むを得ず徒党に加はつたとのこと、然らば罪も軽 ければ自訴せよと、女房共々言葉を尽くして勧めたが聞入れず、 知合の方へ添手紙をして呉れろと達ての願に、寛輔夫婦も情に牽 かされ、一書を伊勢飯高郡垣鼻村海会寺柏宗宛に認め、この者は 身持放埓につき剃髪致させたれば、何分弟子として教化に与りた く、追て寛輔自身罷り出でゝ委細御話に及ぶと書いた。海会寺は 黄檗派の禅寺で、住持柏宗の外に剛嶽といふ所化がゐる。利三郎 は改名して玄達と名乗り、廿五日八ッ時頃右の手紙を持参し、剛 嶽の取次を以て柏宗に呈し、暫時厄介に為つて居つたが、間もな く彼は別して剛嶽と懇意になり、大塩乱に関係したる顛末を打明 け、両人して寛輔の叔父に当る仙台大念寺職投伍を尋ねやうと約 束し、三月十七日朝剛岳は銭箱にある金弐両を奪取つて津に駈落 し、翌十八日利三郎も亦寺を辞して津に向ひ、両人同道にて四月 七日大念寺へ着いた。然るに大念寺の住職は両人の宿泊を肯んぜ ず、金弐朱と米弐升とを出し、之にて何方へなりと立退けとある。 止むなく江戸に帰り、橋本町一丁目願人冷月の弟子となり、利三 郎は別善と改名し、剛岳と共に日々托鉢に出掛けてゐたが、五月 にはいつてから流行病に冒され、同年九月に病死したので、冷月 の弟子分に取拵へ、同人の頼寺浅草遍照院の境内に土葬して仕舞 つた。  済之助の若党植松周次は、主人より暇を貰ひ、上陸してから偶 然中間の浅佶に出会ひ、両人同道して大和に赴き、また袂を分つ て方々を逃廻つて居る中、京都で召捕られた。


「大塩平八郎」目次4/ その154/その156

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