白井彦右衛門
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才次郎は兼て一味に加り、暴挙の当日は人夫を率ゐて行く約束故、
天満に火ありと聞くや、早鐘を撞いて百姓忠右衛門無宿新兵衛以
下多数の村民を集め、竹槍鉄砲を携へ、暮六ッ時頃勇み進んで親
類白井孝右衛門の門口から声を懸けた、孝右衛門は前日大塩邸へ
往つたまゝで帰らない、忰彦右衛門は父より陰謀加担の話を聞い
てゐる故、今朝鉄砲の音が響いてから心配に堪へず、大阪の様子
を見て来いと使を出したが、まだ其使の帰らぬ中に、江州小川村
の医師志村周次の母親と家内とが遣つて来て、周次病気につき親
類の者迎にまゐれと孝右衛門殿の御手紙、今朝程母子して大塩邸
に伺つた処、何か混雑の様子にて取次もゐず、居合はす人人より
早く立退けと言はれ、漸く駈抜けてお宅へまゐりましたと物語る、
間もなく先刻の使が帰つて大阪異変の次第を報告する、さうかう
する中大塩党敗北の噂が伝る、彦右衛門は気が気でない、父親と
いひ、周次といひ、徒党に加りしことは疑なければ、寧ろ思切ら
せて両人を故郷へ戻さんと、実は周次殿は先達て御病死なされた、
と半分言ふか言はぬに母子は悲嘆の涙に鳴咽び、又彦右衛門の母
親たつは夫の身の上を案じて癪を起す、家内は上を下へと混雑す
る計だ、それとも知らぬ才次郎は戸外より、約束の如く大阪に火
の手見ゆ、勝利万々疑なし、之より加勢に赴かんと、勇気を含ん
で述べ立つるを、彦右衛門は小蔭へ招き、声を潜めて敗亡の次第
を告げた、才次郎は之を聞いて顔色変り、竹槍鉄砲を預りくれよ、
一旦大阪に赴きたる上、引連れたる人夫を体よく立去らしめ、大
阪より何方へか逃去るべしと答へたが、果してその如く、彼は大
阪にて人夫と分れ、無宿新兵衛に情を打明け、之を案内として大
和へ走つたのである、彦右衛門は鉄砲六挺を庭内の溜池へ沈め、
竹槍十五本を薪小屋へ隠し、ホツと一息吐いたものゝ、今朝より
の始末、謀叛には与せずとも罪科に処せられんこと疑なしと、そ
の夜四ッ時過我家を立出で、途中携へたる剃刀にて剃髪し、大和
路さして逃げ出したが、間もなく召捕となつた、さて初瀬の宿屋
に偶然落合つた四名中岩蔵は、正一郎の乱暴者であることを能く
知つてゐるので、斯様な者と同伴するは懸念と、翌日体よく一行
と別れ、何とかして主人父子の様子を知らうと、大阪へ立戻つた
所運悪く捕縛となつた、残る三人は尾州に赴き、美濃路を経て三
月十六日能州福浦村喜之助方に到着し、三名共変名して暫時逗留
して居つたが、路用は次第に乏しくなり、且つ故郷の様子も聞き
たい、其処で正一郎は才次郎の依頼を受け、同人の書状を持ち、
才次郎の親類京都笹屋町浄福寺西へ入る六兵衛方より金子を借用
して来やうとて、新兵衛を従へて喜之助方を出発し、美濃路から
尾州へ出で、尾州から東海道筋を京都へ入り、六兵衛方へ往つた
が、遂に此地で召捕られ、四月二日を以て大阪へ引渡となつた、
正一郎出立後の才次郎については詳細を知り得ぬが、右喜之助方
にて自殺したこと丈は確である。
此外木村司馬之助・横山文哉・白井儀次郎・上田孝太郎・般若寺
村卯兵衛の如く、直接暴行に加らざる者も、堀井儀三郎事仁三郎・
安田図書・松本隣太夫・猟師金助等の如く、当日隊中に加はつた
者も、前後皆召捕となり、遂に行衛の知れなんだは河合郷左衛門
志村周次の両人のみであつた。
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■白井彦右衛門
志村周次の母と妻
才次郎は前から一味に加はり、暴挙の当日は人夫を率ゐて行く
約束故、天満に火ありと聞くや、早鐘を撞いて百姓忠右衛門無宿
新兵衛以下多数の村民を集め、竹槍鉄砲を携へ、暮六ッ時頃勇み
進んで親類白井孝右衛門の門口から声を懸けた。孝右衛門は前日
大塩邸へ往つたまゝで帰らない、忰彦右衛門は父より陰謀加担の
話を聞いてゐる故、今朝鉄砲の音が響いてから心配に堪へず、大
阪の様子を見て来いと使を出したが、まだ使の帰らぬ中に、江州
小川村の医師志村周次の母親と家内とが遣つて来て、周次病気に
つき親類の者迎にまゐれと孝右衛門殿の御手紙故、今朝程母子し
て大塩邸に伺つた処、何か混雑の様子にて取次も居らず、居合は
す人々から早く立退けと言はれ、漸く駈抜けてお宅へまゐりまし
たと物語る。間もなく先刻の使が帰つて大阪異変の次第を報告す
る、さうかうする中大塩党敗北の噂が伝はる、彦右衛門は気が気
でない。父親といひ、周次といひ、徒党に加はつたは疑なければ、
寧ろ思切らせて両人を故郷へ戻さんと、実は周次殿は先達て御病
死なされた、と半分言ふか言はぬに母子は悲嘆の涙に鳴咽び、又
彦右衛門の母親たつは夫の身の上を案じて癪を起す、家内は上を
下へと混雑する計だ。それとも知らぬ才次郎は戸外から、約束の
如く大阪に火の手見ゆ、勝利万々疑なし、イザ加勢に赴かんと、
勇気を含んで述べ立てるを、彦右衛門は小蔭へ招き、声を潜めて
敗亡の次第を告げた。才次郎は之を聞いて顔色変り、竹槍鉄砲を
預りくれよ、一旦大阪に赴いた上、引連れた人夫を体よく立去ら
しめ、大阪より何方へか逃去るべしと答へたが、果してその如く、
彼は大阪にて人夫と分れ、無宿新兵衛に情を打明け、同人を案内
として大和へ走つたのである。彦右衛門は鉄砲六挺を庭内の溜池
へ沈め、竹槍十五本を薪小屋へ隠し、ホツと一息吐いたものゝ、
今朝よりの始末、謀叛には与せずとも罪科に処せられんこと疑な
しと、その夜四ッ時過我家を立出で、途中携へた剃刀にて剃髪し、
大和路さして逃げ出したが、間もなく召捕となつた。
初瀬の宿屋に偶然落合つた四名中、岩蔵は正一郎の乱暴者であ
ることを能く知つてゐるので、斯様な者と同伴するは懸念と、翌
日体よく一行と別れ、何とかして主人父子の様子を知らうと、大
阪へ立戻つた所、運悪く捕縛となつた。残る三人は尾州に赴き、
美濃路を経て三月十六日能州福浦村喜之助方に到着し、三名共変
名して暫時逗留して居つたが、路用は次第に乏しくなり、且つ故
郷の様子も聞きたい。そこで正一郎は才次郎の依頼を受け、同人
の書状を持ち、才次郎の親類京都笹屋町浄福寺西へ入る六兵衛方
より金子を借用して来ようとて、新兵衛を従へて喜之助方を出発
し、美濃路から尾州へ出で、尾州から東海道筋を京都へ入り、六
兵衛方へ往つたが、遂に同地で召捕られ、四月二日を以て大阪へ
引渡となつた。正一郎出立後の才次郎については詳細は解らぬが、
右喜之助方にて自殺したこと丈は確である。
■その他の与党
此の外木村司馬之助・横山文哉・白井儀次郎・上田孝太郎・般
若寺村卯兵衛・尊延寺村忠右衛門の如く、直接暴行に加はらざる
者も、堀井儀三郎事仁三郎・安田図書・松本隣太夫・猟師金助等
の如く、当日隊中に加はつた者も、前後皆召捕となり、遂に行衛
の知れなんだは河合郷左衛門志村周次の両人のみであつた。
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