批評
平八郎裁許
の失態
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以上の賞罸に就いて考ふるに、受賞者中に跡部山城守堀伊賀守が
見えぬ、組下の与力同心が主謀者と為つて起した騒乱故、流石に
幕府も山城守は賞し得なんだであらうが、伊賀守は本件には所謂
捲添の体で、到着早々の事件であるから、鎮定の際に若干の手柄
を顕したら、一廉の褒美もあつたものを、砲撃に驚いて落馬した
は情ない、伝七・司馬之助・文哉・才次郎・志摩は実際暴行に加
らず、文哉の如きは応援の約束をしたことも無いとある。是等を
平八郎父子と同罪に処したは、連判状に署名したといふ一事を以
て其理由としたのであらうが、酷と言はざるを得ない、仮に数歩
を譲り、連判状に署名したるにより此極刑に処するを至当なりと
しても、中斎の書籍を買受け、又施行の世話をした四名の書林、
並に本屋会所所在地即ち安堂寺町五丁日の年寄・家主・五人組等
を処罸したは酷ではないか、施行の事は平八郎に取つてこそ人夫
募集の為に之を行つたれ、彼等は全く情を知らない者である、本
屋に対しては、「其筋えも可申処、同人へ打合せ候迄にて右書籍
買取、施行の世話いたし遣ス始末、一同不埒に付」といひ、又安
堂寺町五丁目年寄・家主・五人組に対しては、「日々在町之もの
共多人数寄集るを、如何之儀とも不心得、其儘に打過ル始末、一
同不埒ニ付」とあるが、施行は山城守自身に於て一応察度を加ヘ、
事情を聞いて一日の延期を許したものではないか、それを今更罸
するとは聞えぬ話だ、要するに本件連累者は皆重きによつて処断
されたといへる、但し父の科により死罪に当るべき弓太郎を幼稚
の故を以て大阪永牢に処し、同じ理由を以て、遠島に処すべき宮
脇志摩の長男発太郎以下十三名を、十五歳に至るまで親類預とし
たのは寛大の処置である、助次郎九郎右衛門は御抱席から御譜代
席になつた故、格式は上つた様なものゝ、小普請入では今日の休
職同様である、徒党の一人額田善右衛門は檄文を配附したるを侮
い縊れて死んだ、助次郎は九年六月二十日酒井大和守邸に於て自
殺した、善右衛門には及ばずと雖も尚潔い処がある、此間独り恬
然として恩命を拝した九郎右衛門は、如何なる心知がしたであら
う、彼の訴状は平八郎の不倫を伝へたる最初の書であるが、其事
実は甚だ覚束ない、仮にも一旦師と仰いだ平八郎に無実の悪名を
着せたとすれば、其罪甚だ軽からずといふべきである。
大塩父子の裁許書中、平八郎が養子格之助に娶はすべき約束を以
て養へる橋本忠兵衛の娘みねと通じ、一子弓太郎を挙げたといふ
一條がある、若し之を事実とすれば、学者にあるまじき所業であ
る、併し事の真偽は第二として、幕府の裁許書に、既往に遡り、
罪状に関係なき個人の非行を載せたは大なる失態で、畢竟九郎右
衛門の訴状に、「倅え可娶合積之養娘を竊に自分妾にいたし、男
子出生仕候ニ付、殊の外相歎」云々とあるのを、其儘取つたに過
ぎぬ、平八郎は口に仁義を唱へて、其実容易ならざる悪計を運ら
した者である、恐るべくまた憎むべき者であるといふことを、普
く世人に知らしめる為には、其非行を公布するは一の手段である
かも知れぬが、幕府の裁許書としては頗る失当のものである、縦
令之を事実としても、今回の暴挙には何等の関係なき事である、
裁許書には今回の暴挙に対する罪状を数へればそれで宜しい、罪
状に分厘の関係なき個人の私行を発くには当らぬ、況んや平八郎
の不倫一件が甚だ覚束ない事実とすれば、之を掲げたは愈々以て
正鵠を得て居らぬと言はねばならぬ。
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以上の賞罰に就いて考ふるに、受賞者中に跡部山城守堀伊賀守
が見えぬ。組下の与力同心が主謀者と為つて起した騒乱故、流石
に幕府も山城守を賞し得なんだであらうが、伊賀守は本件には所
謂巻添の体で、到着早々の事であるから、鎮定の際に若干の手柄
を顕したら、一廉の褒美もあつたものを、砲撃に驚いて落馬した
とは情ない。伝七・司馬之助・文哉・才次郎・志摩は実際暴行に
加はらず、文哉の如きは応援の約束をしたことも無いとある。是
等を平八郎父子と同罪に処したは、連判状に署名したといふ一事
を以て理由としたのであらうが、酷と言はざるを得ない。仮に数
歩を譲り、連判状に署名したにより極刑に処するを至当なりとし
ても、中斎の書籍を買受け、施行の世話をした四名の書林、並び
に本屋会所所在地即ち安堂寺町五丁日の年寄・家主・五人組等を
処罰したは酷ではないか。本屋に対しては、「其筋えも可申処、
同人へ打合せ候迄にて右書籍買取、施行の世話いたし遣ス始末、
一同不埒に付」といひ、又安堂寺町五丁目年寄・家主・五人組に
対しては、「日々在町のもの共多人数寄集るを、如何の儀とも不
心得、其儘に打過る始末、一同不埒に付」とあるが、施行は山城
守自身において一応察度を加ヘ、事情を聞いて一日の延期を許し
たものである。それを今更罰するとは前後矛盾の話だ。要するに
本件連累者は皆重きによつて処断されたといへる。但し父の科に
より死罪に当るべき弓太郎を幼稚の故を以て大阪永牢に処し、同
じ理由を以て、遠島に処すべき宮脇志摩の長男発太郎以下十三名
を、十五歳に至るまで親類預としたのは寛大の処置である。助次
郎九郎右衛門は御抱席から御譜代席になつた故、格式は上つた様
なものゝ、小普請入では今日の休職同様である。徒党の一人額田
善右衛門は檄文を配附したを侮いて縊死した。助次郎は裁許前六
月二十日酒井大和守邸において自殺した、善右衛門には及ばずと
雖も尚潔い処がある。此の間独り恬然として恩命を拝した九郎右
衛門は、如何なる心知がしたであらう。彼の訴状は平八郎の不倫
を伝へた最初の書であるが、事実は甚だ覚束ない。仮にも一旦師
と仰いだ平八郎に無実の悪名を着せたとすれば、その罪甚だ軽か
らずといふべきである。
大塩父子の裁許書中、平八郎が養子格之助に娶はすべき約束を
以て養へる橋本忠兵衛の娘みねと通じ、一子弓太郎を挙げたとい
ふ一條がある。若し之を事実とすれば、学者にあるまじき所業で
ある。併し事の真偽は第二として、幕府の裁許書に、既往に遡り、
罪状に関係なき個人の非行を載せたは大いなる失態で、畢竟九郎
右衛門の訴状に、「倅え可娶合積之養娘を竊に自分妾にいたし、
男子出生仕候に付、殊の外相歎」云々とあるのを、襲用したに過
ぎぬ。平八郎は口に仁義を唱へて、内実容易ならざる陰謀を運ら
した者である、恐るべくまた憎むべき者であるといふことを、普
く世人に知らしめるために、非行を発くのは一つの有力な手段で
あるかも知れぬが、裁許書には今回の挙兵に対する罪状を数へれ
ばそれで宜い、罪状に毫末の関係もない個人の私行を発くには当
らぬ。況んや平八郎の不倫一件が甚だ覚束ない事実とすれば、之
を挙げたは愈々以て正鵠を得て居らぬと言はねばならぬ。
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