本文九七頁*1に平八郎の外祖の氏名及祖母の名は不詳と書いてお
いたが、打越竹三郎氏の手紙で祖母の墳墓が天満の蓮興寺にある
と聞き、早速下阪して一覧した所、正面に寿正院妙誠日耀大姉、
右側に文政十一戌子七月十九日、大塩政之丞継室西田氏清享年六
十四とある五輪塔で、其文字は成正寺にある祖父政之丞成余及平
八郎敬高の墓碣と同じく、平八郎後素の自筆と見える、彼が東組
与力西田青太郎の弟格之助を何様いふ縁故で養子にしたか、今迄
不明であつたが、これから考へると、自分の祖母の生家から養子
をしたのであらう、但し平八郎敬高は寛政十一年三十歳にして歿
すといへば、明和七年の出生で、明和七年は父政之丞十九歳継母
西田氏六歳――両人の歿年と享年とより逆算す――となる勘定故
平八郎敬高は先妻の生む所であつたといへる、この墓の側に同じ
様な五輪塔で稍小いものがある、中央には本種院妙因日量、右に
は秀顔童子、左には暁夢嬰孩と題し、台石に西田氏の分と同様大
塩氏とあれど何人か解らぬ、然し法号中妙字日字を用ふる所から
推せば明に婦人で、或は政之丞の先妻かとも思はれるが、之は想
像のみで確証は無い、尚同寺の過去帳九月廿日の所に、清心院妙
義日浄寛政十二申九月廿日、大塩平八郎妻とある、之は平八郎敬
高の妻即ち平八郎後素の生母で、本姓俗名の書いて無いのは如何
にも残念だ、寺僧に依頼して此過去帳の原簿であるべき涅槃簿を
も一覧したが、それは却て過去帳から抜書したもので、無下に新
しく、過去帳所載以外には一字の増減も無い、之には少からず失
望した。
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