平八郎後素が佐藤一斎に寄せた書牘附録(八)には、僕七才の時父
母倶歿すとある、然るに、成正寺にある平八郎敬高の墓には其歿
年を寛政十一年とし、蓮興寺の過去帳には母清心院妙義日浄の歿
年は寛政十二年と記してある、三者中孰れが間違であるか、成正
寺の分は石に刻んだもの故間違のあらう筈は無い、蓮興寺の過去
帳は寛政十一年を十二年と誤記したか、一を二と誤記することは
有勝としても、干支を間違へることは断じてあるまい、墓碣には
十一年己未、過去帳には十二年申とある、然らば平八郎後素の尺
牘に誤があるか、之は彼が師の如く崇べる一斎に始て与へた書牘
であつて、「倶に歿す」とまで明に言へば、間違のあらう筈は無
い、平八郎辞職の年に関し附録(七)と(八)とに一年の異同あるが
如く、また此処にも一年の異同を生じた、不思議の事である。
蓮興寺の墓地を見ると多くの墓石は焼けて居る、成正寺の平八郎
敬高の墓碑に「旧碑為火災焼燬、因再製碑云」とあるのに能く合
ふ、これは天保五年七月十一日堂島裏町二丁目桜橋筋より出火し、
曾根崎・天満・川崎・北野・梅田一円を焼払つた火事を指すので
あらう、それにしても大塩家で男女墓地を異にしてゐるのは何の
為だか解らぬ、蓮興寺は京都要法寺末、成正寺は甲州身延山久遠
寺末である、本寺こそ違へ法華宗たるは同一で、中間に一寺を隔
てゝ相並んで居る、宗派の異同とか墓地の遠近とかいふ点に就い
ては何等の関係も無い、成正寺の墓石は今は本堂の前に南面して
建つてゐるが、もとは本堂裏手の墓地境内にあつたといふ、多分
は明治三十年田能村直入が後素の墓を建てるに際し墓地から移し
たものであらう、肝要の旧位置は今は解らぬ。
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