Я[大塩の乱 資料館]Я
2007.8.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その198

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 余説 (3)


敬高夫妻の
歿年

















大塩氏男女
墓地の相違

平八郎後素が佐藤一斎に寄せた書牘附録(八)には、僕七才の時父 母倶歿すとある、然るに、成正寺にある平八郎敬高の墓には其歿 年を寛政十一年とし、蓮興寺の過去帳には母清心院妙義日浄の歿 年は寛政十二年と記してある、三者中孰れが間違であるか、成正 寺の分は石に刻んだもの故間違のあらう筈は無い、蓮興寺の過去 帳は寛政十一年を十二年と誤記したか、一を二と誤記することは 有勝としても、干支を間違へることは断じてあるまい、墓碣には 十一年己未、過去帳には十二年申とある、然らば平八郎後素の尺 牘に誤があるか、之は彼が師の如く崇べる一斎に始て与へた書牘 であつて、「倶に歿す」とまで明に言へば、間違のあらう筈は無 い、平八郎辞職の年に関し附録(七)と(八)とに一年の異同あるが 如く、また此処にも一年の異同を生じた、不思議の事である。 蓮興寺の墓地を見ると多くの墓石は焼けて居る、成正寺の平八郎 敬高の墓碑に「旧碑為火災焼燬、因再製碑云」とあるのに能く合 ふ、これは天保五年七月十一日堂島裏町二丁目桜橋筋より出火し、 曾根崎・天満・川崎・北野・梅田一円を焼払つた火事を指すので あらう、それにしても大塩家で男女墓地を異にしてゐるのは何の 為だか解らぬ、蓮興寺は京都要法寺末、成正寺は甲州身延山久遠 寺末である、本寺こそ違へ法華宗たるは同一で、中間に一寺を隔 てゝ相並んで居る、宗派の異同とか墓地の遠近とかいふ点に就い ては何等の関係も無い、成正寺の墓石は今は本堂の前に南面して 建つてゐるが、もとは本堂裏手の墓地境内にあつたといふ、多分 は明治三十年田能村直入が後素の墓を建てるに際し墓地から移し たものであらう、肝要の旧位置は今は解らぬ。


『大塩平八郎 』その173 附録(七)
『大塩平八郎 』その174 附録(八)


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