きぬ及豊田
貢の捕縛
|
段々取調中、さのが以前住んで居つた堂島新地裏町播磨屋卯兵
衛女房そよなる者の口から、さの同町住居の頃は忰新助晴雨の
別なく毎日昼過から日暮まで、天満龍田町播磨屋藤蔵同居きぬ
方へ通つたことが知れたので、直にきぬを捕縛尋問して見ると、
きぬも色々申立を仕たが、家にはさの同様稲荷明神を祭つてあ
るし、紙にて作つた人形があるし、天井板の透間其他人の眼を
ミトホシ
牽かぬ所に金銀銭が隠してあるし、其頃八坂の見通と呼ばれた
る京都八坂上ル町豊田貢との往復の書面はあるし、遂にさのき
ぬ両人突合吟味となり、その結果きぬはさのゝ師匠であると共
に貢はまたきぬの師匠で、彼等の行ふ所は御禁制の耶蘇の邪法
と解り、片時も忽にし難いと京郡町奉行神尾備中守へ懸合ひ、
捕縛の上大阪へ護送となつた、きぬの入牢は四月廿七日、貢は
六月十三日で、俗説に平八郎身形を変じて貢の家に入込み、其
邪術を看破して捕縛したとあるは誤伝で、洛中洛外は京都町奉
行の支配であるから、万一此の如き事があつたとすれば、京都
町奉行は自分の支配範囲を侵されながら黙つて居るべき筈は無
い。
|
段々取調中、さのが以前住んで居つた堂島新地裏町播磨屋卯
兵衛女房そよなる者の口から、さの同町住居の頃忰の新助が晴
雨の別なく毎日昼過から日暮まで、天満龍田町播磨屋藤蔵同居
きぬ方へ通つたことが知れたので、直ちにきぬを捕縛尋問して
見ると、きぬは色色陳弁したが、同人家にはさの同様稲荷明神
を祭つてあるし、紙にて作つた人形があるし、天井板の透間そ
の他人の眼の附かぬ所に金銀銭が隠してあるし、その頃八坂の
ミトホシ
見透と呼ばれた京都八坂上ル町豊田貢との往復の書面はあるし、
遂にさのきぬ両人突合吟味となり、その結果きぬはさのの師匠
であると共に貢はまたきぬの師匠で、彼等の行ふ所は御禁制の
耶蘇の邪法であらうと認定し、至急貢の捕縛護送方を京郡町奉
行神尾備中守へ懸合つた。きぬの入牢は四月廿七日、貢の入牢
は六月十三日である。俗説に平八郎身を変じて貢の家に入込み、
その邪術を看破して之を捕縛したとあるが、それは誤伝と思ふ。
洛中洛外は京都町奉行の支配であるから、万一此の如き事があ
つたとすれば、京都町奉行は自分の支配範囲を侵されながら黙
つて居るべき筈は無い。
|