Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.3.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その34

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (5)
 改 訂 版


貢の申口















糸屋わさ

天帝如来の
画像

貢は土御門配下の陰陽師で、文政七八年の頃から八坂上ル町に 住居を構へ、易占稲荷明神下の表看板を掲げ、邸内には稲荷社 を奠め、之を豊国大明神と称へ、提灯抔も其通り大文字に書か せ、紋所には瓢箪を用ゐ、弁舌逞しく何様一癖有気の老婆で、 是時貢は五十四歳、きぬは五十九歳、さのは五十六歳である、 最初吟味の時、貢は易道又は明神下にても随分吉凶禍福を知る ことが出来るとか、我師匠は新橋繩手の茶屋糸屋わさ方にて面 会した出所氏名不明の異人なりとか、言を左右に転じて陳弁を 試みたが、きぬさの等の申口に分明なる上は隠すに由なく、耶 蘇の邪法を行つたと白状した、併し其師伝に就いては飽迄包隠 さうとし、伝法は糸屋わさから受け、其所有の天帝如来の画像 に指血を濺いだのである、同人は養実共忰もなき寡婦にて十年 以前病死し、其際貢は画像を請取に往つたが、生前既に他に遣 したものか行方が知れぬ、縦令存命して居るとしても、同人は 表向の師匠たるに止り、自分程妙通を得て居らぬからは、師匠 で無いも同様、自分儀御仕置を受くるに付き、わさ死跡並画像 の行衛取調は勿論、前記きぬさの両人も憐愍を以て助命を願ふ と再三申立てた、

 貢は土御門配下の陰陽師で、文政七八年の頃から八坂上ル町 に住居を構へ、易占稲荷明神下の表看板を掲げ、邸内には稲荷 社を奠め、之を豊国大明神と称へ、提灯抔もその通り大文字に 書かせ、紋所には瓢箪を用ひ、弁舌逞しく何様一癖有気の老婆 であつた。是時貢は五十四歳、きぬは五十九歳、さのは五十六 歳である。最初吟味の時、貢は易道又は明神下にても随分吉凶 禍福を知ることが出来るとか、我が師匠は新橋繩手の茶屋糸屋 わさ方にて面会した氏名出所不明の異人であるとか、言を左右 に転じて陳弁を試みたが、きぬ及びさのの自白した上は隠すに 由なく、耶蘇の邪法を行つたと白状した。併し師伝に就いては 飽迄包隠さうとし、伝法は糸屋わさから受け、わさ所有の天帝 如来の画像に指血を濺いだ。同人は男女の実子養子も無い寡婦 で、十年以前病死し、その際貢は画像を請取に往つたが、生前 既に他に遣はしたものか見当らなかつた。仮令今日存命して居 るとしても、同人は単に表向の師匠たるに止まり、自分程妙通 を得て居らぬから、師匠で無いも同様である。自分儀御仕置を 受くるにつき、わさ死跡並びに画像の行方取調は勿論、前記き ぬさの両人とも憐愍を以て助命を願ふと再三申立てた。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その33/その35

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