貢の申口
糸屋わさ
天帝如来の
画像
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貢は土御門配下の陰陽師で、文政七八年の頃から八坂上ル町に
住居を構へ、易占稲荷明神下の表看板を掲げ、邸内には稲荷社
を奠め、之を豊国大明神と称へ、提灯抔も其通り大文字に書か
せ、紋所には瓢箪を用ゐ、弁舌逞しく何様一癖有気の老婆で、
是時貢は五十四歳、きぬは五十九歳、さのは五十六歳である、
最初吟味の時、貢は易道又は明神下にても随分吉凶禍福を知る
ことが出来るとか、我師匠は新橋繩手の茶屋糸屋わさ方にて面
会した出所氏名不明の異人なりとか、言を左右に転じて陳弁を
試みたが、きぬさの等の申口に分明なる上は隠すに由なく、耶
蘇の邪法を行つたと白状した、併し其師伝に就いては飽迄包隠
さうとし、伝法は糸屋わさから受け、其所有の天帝如来の画像
に指血を濺いだのである、同人は養実共忰もなき寡婦にて十年
以前病死し、其際貢は画像を請取に往つたが、生前既に他に遣
したものか行方が知れぬ、縦令存命して居るとしても、同人は
表向の師匠たるに止り、自分程妙通を得て居らぬからは、師匠
で無いも同様、自分儀御仕置を受くるに付き、わさ死跡並画像
の行衛取調は勿論、前記きぬさの両人も憐愍を以て助命を願ふ
と再三申立てた、
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貢は土御門配下の陰陽師で、文政七八年の頃から八坂上ル町
に住居を構へ、易占稲荷明神下の表看板を掲げ、邸内には稲荷
社を奠め、之を豊国大明神と称へ、提灯抔もその通り大文字に
書かせ、紋所には瓢箪を用ひ、弁舌逞しく何様一癖有気の老婆
であつた。是時貢は五十四歳、きぬは五十九歳、さのは五十六
歳である。最初吟味の時、貢は易道又は明神下にても随分吉凶
禍福を知ることが出来るとか、我が師匠は新橋繩手の茶屋糸屋
わさ方にて面会した氏名出所不明の異人であるとか、言を左右
に転じて陳弁を試みたが、きぬ及びさのの自白した上は隠すに
由なく、耶蘇の邪法を行つたと白状した。併し師伝に就いては
飽迄包隠さうとし、伝法は糸屋わさから受け、わさ所有の天帝
如来の画像に指血を濺いだ。同人は男女の実子養子も無い寡婦
で、十年以前病死し、その際貢は画像を請取に往つたが、生前
既に他に遣はしたものか見当らなかつた。仮令今日存命して居
るとしても、同人は単に表向の師匠たるに止まり、自分程妙通
を得て居らぬから、師匠で無いも同様である。自分儀御仕置を
受くるにつき、わさ死跡並びに画像の行方取調は勿論、前記き
ぬさの両人とも憐愍を以て助命を願ふと再三申立てた。
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