Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.19

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「浮世の有様 巻之一」

◇禁転載◇

文政十二年切支丹始末 その7

 



 
 




 さの

天満川崎に住す。川崎といへるは、北野太融寺の門前を東へ二三町計りの所なり。

此者きぬ弟にして、京稲荷山、其外物凄き山中に、夜中籠り断食をなし、すべて不動心とて荒行をなし、其功を積みて邪法伝受を受けしといふ。

表向は明神下しと号し、祈祷して人をたらし、金銀を貪ぼりしが、後は甚しくなりて、家主憲法屋与兵衛を始め、其外堂島所々にて人をだまし、

「我れ金銀を神力にて殖(ふや)しやるべし、先づ試に銭一貫にても十貫にても預けみよ」と云へるにぞ、慾心多き所より、何れも之にだまされ、皆々金銭を此者に預けしに、

「銭十貫の預りしには、其月末に至りて、三貫匁の利足を附け、之を持行き其者に見せ、纔一箇月にして三貫文の徳付きたり、帳面に控へ利分の入をつけよ」とて、これを控へさせ、

「十貫にてさヘ一ケ月に此の如し。先づ此三貫文も亦持帰りて、元と共に廻しなば、又是に利の付くぞ」とて、利息見せしのみにて持帰り、明くる月も亦又此の如くに利を見せて、帳面に入を記させ、持婦りぬるが、其節さの云ふやうは、

「纔銭十貫文にてさへ、かやうの利銀を得る事なり。過分の金儲けせんと思へば、元銀多き程よし」といへるにぞ、

家主始め之を頼みぬる者共、有りたけの金引さらヘ、憲法屋与兵衛 家主なり。 などは、外方(よそ)にて「木綿一駄月末迄、暫し借せ」とて借受けなどして、さのに託しぬるに、只口先にて、

「此月は何程ふえて此程になりぬ。利銀を控へ置け」とて、之を帳面に控ふるのみにて、三文も手に入る事なき事なれば、借りし方へは返しやらざればなり難く、手元大きに差支へぬる故、

「何とぞ利銀の内を三貫目受取りくるゝやう」にと、さのへ頼みぬ。素より金を借付け、仰山にふえしといへるは偽にて、預りし銀は銘々悪徒等打寄りて遣捨てし事なれば、外に出る事とてはなし、数度の催促に逢ひ、始めの程は、

「明神の御苦労を遊ばし折角ふやし給はるに、今頃さやうの事申上げては、神慮に叶ひ難し、神罰を蒙る事なれば、身の為め宜しからず」などいひて、之を威(おど)しぬれ共、何分にも与兵衛身上立ち難くて、又々催促に及べるに、外々の金預けし者共、是を疑はしく思ふ心出で、是等も頻りに催促をなし、

「公訴に及ぶべし」などいへるにぞ、今は堪へ難く、憲法屋へ行いて言へるやうは、

「兼て利銀下げの事願はるれども、明神には大きに御心配にてふやしやり給ふ折なれば、其銀今御下げを願うては、明神をなぶり奉るに当れば、忽ち神罰を蒙るべし。今暫し待ち給へ、備前国福渡り 城下より六里奥。 より頻りに我を招待し、法を弘めくるゝやう是迄毎度頼み越しぬれば、四五十日計り滞留して法を弘めば、余程の金を得べし、その金を以て間に合はすべし。かくすれば明神の御怒もなく、金銀沢山にふやし給ふ故、身の為め大きによし。今少しの所待れ申すべし」とて、之を欺しぬるに、素より彼を信じ、かゝる事に及べる程の愚人なれば、

「さあらば先方へしはらく相断るべし、一時も早く金子手に入るやう計らひ給はれ」といへるにぞ、

 




「我は此より内を片付け、明日より下る用意すべし」とて、引取りしが、其疑を散ぜんため、諸道其等与兵衛方へ預け、後の事何によらす同人へ頼み置きて、早々備前福渡りをさして逃げ下りぬ。

斯くて廿日余も過ぎて、彼が同類の者召捕られ、切支丹なる事明白なるにぞ、当人宿に有らざれば、家主憲法屋を召出され、

「其方借家に住めるさの事は、公儀御法度の切支丹なり。其方此者に知りて家を借しぬるや、知らずして差置けるや、何分にも不糺の至り、不埒至極なり」と御叱りを蒙りしに、与兵衛思ひ寄らざる事なれば、大きに肝を潰し驚きつゝ、

「何しに私夫と知りながら家を借し申すべきや」と、申すにぞ、

「左様あるべき事なり。此節さのは何れに行きたるぞ」と御尋ねあるにぞ、

「同人事備前福渡りと申す所に参り居候」と申にぞ、

「実に相違なきや、偽にても申さば、其罪同罪たるべし」となり。与兵衛云へるには、

「同人彼地へ参りてより両度迄便り御座候へば、訳て違ふ事之なし」と申上げしかば、

「然らば早々召捕に遣すべし」と、仰せられしに、与兵衛いへるやうは、

「憎き婆めに候へば、私罷越連れ帰り申すべし、御上の御苦労掛け奉るべき迄もなし、何とぞ此儀を御許し下し置かれ候へ」と申上ぐるに、

「夫は神妙なり。併し如何して連帰らんと思へるや、大切の科人なるぞ」と仰せられしに、

「外に仔細とてもなし、只欺して急度連参り申すべし」と申すにぞ、

「然しば早々計るべし。何つ出立するや、陸を行かんと思へるや、又船路を行くの積りなるや」と御尋ねありしに、

「大切の事なれば、船にては日数も計り難く候へば、明朝直に出立にて陸を参るべし」と申上ぐ。

 
 




夫より御奉行所を下り、其支度をなして、明る日直に出立し、福渡りに到り、婆々に逢て云ふやうは、

「我ここに来りしは余の事にあらず、当所へ参られし後にて、兼ねて我が金を明神の御蔭にて殖しもろふ事を、近在の心易き者へ噂せし事ありしを聞きて、或は金持てる人の銀子三十貫目ほど預け奉りて、之をふやしくれらるゝやうに頼みくれよとて、頼み来られしが、未だ帰り給はずやとて、度々尋ね来れるにぞ、兼ねて噂する如く、我も三貫目の銀に詰り、大きに困窮の事なれば、何卒帰り来りて、其金を預りやりて、其内にて右のご三貫目振替へくれらるゝ様に致したしとの事、書状にて申越しても分り難ければ、直に迎へに来りたり。何卒我を救ひ給れ」と、誠しやかに頼みぬるにぞ、

さの当所へ来たりて祈祷など為し、竊に法を弘めかけしかども、素より辺鄙の事なれば、格別思はしき事にもあらず預りし銀子催促せられ、拠なく此所へ逃れ来れる程の事なれば、早速に之れを諾ひ、

「何か取片付て、明朝同伴して掃るべし」とて、其用意をなす。与兵衛しすましたりとて、猶程よくたらし込み、明日同伴にて出立せしが、大坂へ僅か二里計りになりぬる所にて、役人体の者大勢立出でて、

「其方は憲法屋与兵衛なるや。同道せし者はさのなるか」と尋ねられしかば、

「しかなり」と答へしに、直にさのを引立て、

与兵衛には用なし、早々帰れ」と申さるゝにぞ、両人共大いに狼狽へしが、与兵衛は放されし事故、早々に逃帰りしが、直に御奉行所へ出でて、

「備前よりさのを連帰りし処、途中にて何者ともしれす御役人体にまがヘ、奪取り申し候。折角連帰りながら、右の仕合せ、何共致方なし。早々、詮議願奉る」と申上しかば、

「大いに大義なりし。さのは此方より召捕りに遣せしなりと噂あるうち、はや同人を縄付にて引出すにぞ、与兵衛には下れとの事故、早々に帰りしが、今は何時迄待ちしとても、さのより金の返る事なければ、詮方なく家屋敷売払、借銀を払ひ、其余りに又外にて銀子借り足して、北新地にて尾上湯の株を買ひて風呂屋となりぬ。

後にては切支丹へ掛り合ある者は皆町預け、他参留等になりて、別けて家の売買など出来ぬる事にあらざりしが、未だ発端の事故、其沙汰なきうち故かゝる事なしといふ。

然るに切支丹御仕置後、同人も召出され、鳥目二千貫文差出べし」と仰渡されしかば、大いに驚き、種々嘆出でしに大いに御叱を蒙り、「切支丹へ金をかし、かゝる不正の利銀取込候事故、死罪にも仰付けらるゝ筈の処、御憐愍を以て利銀の取込みしを持出し仰付けらるゝが、有難く思ふべし。命の代りなるぞ」との仰出されし由、大利といへるも名計りにて、三文も手に入りし事にてはなしと雖も、元来利足取らんとて、利慾の心より身代傾き、居宅をも売払ふ程に貸附けしにぞ、かゝる目に逢し事なりとぞ。

与兵衛事、福島鳥羽屋義兵衛と心易き男故、何かの始末同人鳥羽屋へ咄しぬるとて、予に語りかせぬるまゝを記す。

 
 





備前屋新七とて、岡山西大寺町より来りて、当所に住する者あり。此者の伯母登坂せし故、此人々福渡りにての様子を尋ねしに、大勢随身の者共ありしかども、町家・在家は少く、多くは山の者とて、非人頭にて盗賊方の手先に使はるゝ者共一村百軒計りなるが、此村残らず帰依せし事故、切支丹といふ事あらはれて後、穢多を以て之を召捕らんとせしに、大いに手に余り、穢多十六人迄打殺され、非人は纔か一人少々の疵蒙りし迄にてありしか共、終に地頭の勢にてひしぎ付け、一々召捕り、重もたる者共悉く遠島になりしといふ。

 


「文政十二年切支丹始末」 その6その8
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