Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.3.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その35

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (6)
 改 訂 版


いと  
とき

其処で京都町奉行へ懸合ひ、わさ子孫の有無、並に同人死跡引 取先に天帝如来の画像が取隠してあるや否やを取調べて貰ふと、 同地町奉行の手からわさ養女としていと・とき両人、及死跡引 取人として東洞院二條上ル美濃屋佐兵衛なるものを送つて来た。 佐兵衛の言ふ所によれば、右体の画像は曾て見当らないとあつ て紛しくは無く、画像捜索の手蔓は一旦切れたが、いと・とき 両名の申口によつて大なる発見があつた―いとは八歳の時わさ の養女に貰はれ、十六歳の時奉公に出で、其主人の妻となつた 者で、ときは当歳の時からわさの養女となり、始終その傍に居 り、長じて遊女に売られ、今は幸に何某の妻となつて居る者で ある―即ち水野軍記といふ客人とわさが特に懇意であつた事、 貢が夫斎藤伊織に棄てられてからわさ方に同居し、軍記・わさ・ 貢三人奥座敷に引籠りて密談に及び、何人をも近付けざる事、 貢が八坂上ル町へ引越後、わさが商売を第二として毎々貢方へ 通ひ、時には夜中起上り何事か祈念を凝らし、紙にて人形を作 る故、その所以を聞きしにお前等の知る所にあらずと叱られた 事、ときはわさより自分の代に貢に就いて修行せよと命ぜられ、 詮方なく貢方に赴いたが、修行を拒んだ為に存外の折檻を被り、 逃帰つてわさに話すと、却つて其怒に触れて、進退谷り、生命 を捨てやうと覚悟した所ヘ、いとが偶然にも来合せて思止まつ た事、其後水野軍記へ預けられ、終にわさの為に遊女に売られ た事等が彼等の口から知れた、

 そこで京都町奉行へ懸合ひ、わさ子孫の有無、並びに同人死 跡引取先に天帝如来の画像が取隠してあるや否やの取調を依頼 すると、同地からわさ養女としていと・とき両人、及び死跡引 取人として東洞院二條上ル美濃屋佐兵衛なるものを送つて来た。 佐兵衛の言ふ所によれば、右体の画像は曾て見当らないとあつ て、捜索の手蔓は一旦切れたが、いと・とき両名の申口によつ て大いな発見があつた。いとは八歳の時わさの養女に貰はれ、 十六歳の時奉公に遣られ、奉公先の主人の妻となつた者、とき は当歳の時からわさの養女となり、始終その傍に居り、長じて 遊女に売られ、今は幸に何某の妻となつて居る者である。この 両人の口からわさが水野軍記といふ客人と特に懇意であつたこ と、貢は夫斎藤伊織に棄てられてからわさ方に同居し、軍記・ わさ・貢三人奥座敷に引籠つて密談に及び、何人をも近付けな かつたこと、貢が八坂上ル町へ引越後、わさが商売を第二とし て毎々貢方へ通ひ、時には夜中起上り何事か祈念を凝らし、紙 にて人形を作る故、その謂を聞いた所、お前等の知る所でない と叱られたこと、ときはわさから自分の代に貢に就いて修行せ よと命ぜられ、詮方なく貢方に赴いたが、修行を拒んだ為に存 外の折檻を被り、逃帰つてわさに話すと、却つてその怒に触れ て、進退谷まり、生命を捨てやうと覚悟した所ヘ、いとが偶然 にも来合せて思止まつたこと、その後ときは水野軍記へ預けら れ、終にわさの為に遊女に売られた事等が知れた。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その34/その36

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