Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.3.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その36

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (6)
 改 訂 版

仇て貢は両女と貢とを突合吟味を受け、水野軍記が師匠である と白状に及んだものゝ、肝要の軍記は文政七年十二月廿二日を 以て病歿して居る所から、其葬式に立合うた同所仏具屋町北小 路上ル法貴政助・知恩院古門前元町三村城之助事槌屋少弐・柳 馬場丸太町寺田屋熊蔵等五名、軍記の師匠と号し、軍記と共に 祇園の二軒茶屋で貢から饗応に与つた摂州西成郡曾根崎村藤井 右門事伊良子屋桂蔵、軍記長崎遊歴中妻子を世話した大阪松山 町高見屋平蔵、幕府厳禁の書類を所蔵せし堂島船大工町藤田顕 蔵、生前軍記の世話をした京都不明門通松原下ル町亡中村屋新 太郎の子新太郎、江州水口宿北町紅葉屋甚兵衛同居軍記実子蒔 次郎等段々に召捕入牢となつた、之は閏六月から七月へ懸けて の事である。

■関係者の捕縛入牢  仇て両女と貢とを突合吟味に及んだ所、貢は水野軍記が師匠 であることを白状したが、肝要の軍記が文政七年十二月廿二日 を以て病歿して居るので、その葬式に立合つた同所仏具屋町北 小路上ル法貴政助・知恩院古門前元町三村城之助事槌屋少弐・ 柳馬場丸太町寺田屋熊蔵外二名、軍記と共に祇園の二軒茶屋で 貢から饗応に与つた摂州西成郡曾根崎村藤井右門事伊良子屋桂 蔵、軍記長崎遊歴中妻子の世話をした大阪松山町高見屋平蔵、 幕府厳禁の書類を所蔵してゐた堂島船大工町藤田顕蔵、生前軍 記の世話をした京都不明門通松原下ル町亡中村屋新太郎の子新 太郎、江州水口宿北町紅葉屋甚兵衛同居軍記実子蒔次郎等を追 々に召捕り、入牢を申付けた。閏六月から七月へ懸けての事で ある。

水野軍記















出所

要するに水野軍記は本件に関する大立物である、彼が伝へたる 所の耶蘇教が果して真の耶蘇教であつたとすれば、彼は何処に て之を学び、又如何なる方法手段を以て之を貢等に伝へたか、 単に貢・きぬ・さの等の所業を以て見れば、吉凶禍福を未然に 告げ、愚夫愚婦を迷して金銀を集むるに過ぎず、浴水、不動心 の養成、センスマルハライソの呪文、紙を以て人形を作り釘を 打つ事、これ丈で耶蘇教と断定するのは軽率である、貢・きぬ・ 桂蔵・平蔵等が拝した天帝如来の画像は果して如何なるもので あつたか、以上諸点に就いて一応研究を試みやう、元来軍記は 出所不明の者で、槌屋少弐は彼を肥前島原支配豊前長洲の人と いひ、法貴政助は江戸といひ、寺田屋熊蔵は下野宇都宮の出生 にて江戸大阪に人と成つたといひ、頁も宇都宮出生といひ、区 々として一定せぬが、彼が後年長崎へ往くと称し、数年間京阪 地方に姿を隠した所から考へると、縦令長洲の人でなくとも西 国生であることは疑なく、壮年の砌江戸に居つたことは少弐及 中村屋新太郎の吟味書で明白であるし、又高見屋平蔵を彼に紹 介した大阪尾張坂町亡松屋次兵衛が軍記とは主従同然の間柄で あると自称したといへば、大阪にも深い縁故があつたらしい、 本業は手跡指南で、政助新太郎は彼の筆道の門人であつた、

 要するに水野軍記は本件の大立物である。彼が伝へたといふ 耶蘇教が果して真の耶蘇教であつたとすれば、彼は何処にて之 を学び、又如何なる方法手段を以て之を貢等に伝へたか。単に 貢・きぬ・さの等の所業を以て見れば、吉凶禍福を未然に告げ、 愚夫愚婦を迷して金銀を集めるに過ぎない。浴水、不動心の養 成、センスマルハライソの呪文、紙を以て人形を作り釘を打つ 事、これ丈で耶蘇教と断定するのは軽率である。貢・きぬ・桂 蔵・平蔵等が拝した天帝如来の画像は果して如何なるものであ つたか。以上諸点に就いて一応研究を試みよう。元来軍記は出 所不明の者で、槌屋少弐は彼を肥前島原支配豊前長洲の人とい ひ、法貴政助は江戸の人といひ、寺田屋熊蔵は下野宇都宮の出 生で江戸大阪に人と成つたといひ、頁も宇都宮出生といひ、区 々として一定せぬが、第一説が一番尤もらしい。壮年の砌江戸 に居つたことは少弐及び中村屋新太郎の吟味書で明白であるし、 又高見屋平蔵を彼に紹介した大阪尾張坂町亡松屋次兵衛が軍記 とは主従同然の間柄であると自称したといへば、大阪にも深い 縁故があつたらしい、本業は手跡指南で、政助新太郎は彼の筆 道の門人であつた。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その35/その37

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