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仇て貢は両女と貢とを突合吟味を受け、水野軍記が師匠である
と白状に及んだものゝ、肝要の軍記は文政七年十二月廿二日を
以て病歿して居る所から、其葬式に立合うた同所仏具屋町北小
路上ル法貴政助・知恩院古門前元町三村城之助事槌屋少弐・柳
馬場丸太町寺田屋熊蔵等五名、軍記の師匠と号し、軍記と共に
祇園の二軒茶屋で貢から饗応に与つた摂州西成郡曾根崎村藤井
右門事伊良子屋桂蔵、軍記長崎遊歴中妻子を世話した大阪松山
町高見屋平蔵、幕府厳禁の書類を所蔵せし堂島船大工町藤田顕
蔵、生前軍記の世話をした京都不明門通松原下ル町亡中村屋新
太郎の子新太郎、江州水口宿北町紅葉屋甚兵衛同居軍記実子蒔
次郎等段々に召捕入牢となつた、之は閏六月から七月へ懸けて
の事である。
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■関係者の捕縛入牢
仇て両女と貢とを突合吟味に及んだ所、貢は水野軍記が師匠
であることを白状したが、肝要の軍記が文政七年十二月廿二日
を以て病歿して居るので、その葬式に立合つた同所仏具屋町北
小路上ル法貴政助・知恩院古門前元町三村城之助事槌屋少弐・
柳馬場丸太町寺田屋熊蔵外二名、軍記と共に祇園の二軒茶屋で
貢から饗応に与つた摂州西成郡曾根崎村藤井右門事伊良子屋桂
蔵、軍記長崎遊歴中妻子の世話をした大阪松山町高見屋平蔵、
幕府厳禁の書類を所蔵してゐた堂島船大工町藤田顕蔵、生前軍
記の世話をした京都不明門通松原下ル町亡中村屋新太郎の子新
太郎、江州水口宿北町紅葉屋甚兵衛同居軍記実子蒔次郎等を追
々に召捕り、入牢を申付けた。閏六月から七月へ懸けての事で
ある。
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水野軍記
出所
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要するに水野軍記は本件に関する大立物である、彼が伝へたる
所の耶蘇教が果して真の耶蘇教であつたとすれば、彼は何処に
て之を学び、又如何なる方法手段を以て之を貢等に伝へたか、
単に貢・きぬ・さの等の所業を以て見れば、吉凶禍福を未然に
告げ、愚夫愚婦を迷して金銀を集むるに過ぎず、浴水、不動心
の養成、センスマルハライソの呪文、紙を以て人形を作り釘を
打つ事、これ丈で耶蘇教と断定するのは軽率である、貢・きぬ・
桂蔵・平蔵等が拝した天帝如来の画像は果して如何なるもので
あつたか、以上諸点に就いて一応研究を試みやう、元来軍記は
出所不明の者で、槌屋少弐は彼を肥前島原支配豊前長洲の人と
いひ、法貴政助は江戸といひ、寺田屋熊蔵は下野宇都宮の出生
にて江戸大阪に人と成つたといひ、頁も宇都宮出生といひ、区
々として一定せぬが、彼が後年長崎へ往くと称し、数年間京阪
地方に姿を隠した所から考へると、縦令長洲の人でなくとも西
国生であることは疑なく、壮年の砌江戸に居つたことは少弐及
中村屋新太郎の吟味書で明白であるし、又高見屋平蔵を彼に紹
介した大阪尾張坂町亡松屋次兵衛が軍記とは主従同然の間柄で
あると自称したといへば、大阪にも深い縁故があつたらしい、
本業は手跡指南で、政助新太郎は彼の筆道の門人であつた、
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要するに水野軍記は本件の大立物である。彼が伝へたといふ
耶蘇教が果して真の耶蘇教であつたとすれば、彼は何処にて之
を学び、又如何なる方法手段を以て之を貢等に伝へたか。単に
貢・きぬ・さの等の所業を以て見れば、吉凶禍福を未然に告げ、
愚夫愚婦を迷して金銀を集めるに過ぎない。浴水、不動心の養
成、センスマルハライソの呪文、紙を以て人形を作り釘を打つ
事、これ丈で耶蘇教と断定するのは軽率である。貢・きぬ・桂
蔵・平蔵等が拝した天帝如来の画像は果して如何なるものであ
つたか。以上諸点に就いて一応研究を試みよう。元来軍記は出
所不明の者で、槌屋少弐は彼を肥前島原支配豊前長洲の人とい
ひ、法貴政助は江戸の人といひ、寺田屋熊蔵は下野宇都宮の出
生で江戸大阪に人と成つたといひ、頁も宇都宮出生といひ、区
々として一定せぬが、第一説が一番尤もらしい。壮年の砌江戸
に居つたことは少弐及び中村屋新太郎の吟味書で明白であるし、
又高見屋平蔵を彼に紹介した大阪尾張坂町亡松屋次兵衛が軍記
とは主従同然の間柄であると自称したといへば、大阪にも深い
縁故があつたらしい、本業は手跡指南で、政助新太郎は彼の筆
道の門人であつた。
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