槌屋少弐
二條家及閑
院宮家に仕
ふ
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捕縛せられたる一類中最も古く軍記を知つて居るのは槌屋少弐
で、寛政七年京都祇園新地の借馬場で始めて懇意になつたとあ
る、此者は豊後国高田芝崎村の生で、其頃は阿部勘解由と称し、
某宮方に勤めて居り、軍記が自ら長洲の生といふを聞き、一層
可懐しく、其後折々軍記の訪問を承け、終にその依頼によつて
彼を二條家の祐筆頭役に吹挙した、尤も当時は少弐も右宮家を
辞して二條家に仕へてゐたのであつたが、何分にも最初の見込
と違ひ、軍記の所業に豪放我儘の事多く、少弐の注告も聞入れ
ぬので、到頭二條家から暇が出で、それから如何なる手蔓があ
つたか、軍記は寛政十一二年の頃閑院宮家に住込み、五條醒井
亡富田屋利右衛門の借家に居つた、彼が藤井右門事伊良子桂蔵
に天帝如来の画像を示し、耶蘇の法を説いたは此借家で、事は
文化二年に起こり、また豊田貢に同様の伝法に及んだは同七年
の冬、貢に同伴せるきぬに画像を示したは同十三年で、場所は
倶に馴染の茶屋糸屋わさ方の一室である、然るに彼は閑院宮家
にても再び不始末を働き、翌十四年十二月同邸を駈落し、寺田
屋熊蔵方に一泊し、翌朝駕籠にて伏見まで逃げたが、此所にて
召捕となり、翌文政元年四月宮家からは永の暇となり、家財諸
色は残らず没収せられ、加之外宮堂上方の仕官をも差止められ
て仕舞つた、「不勘定筋有之」とあれば、恐くは富家の金銀を
遣込んだのであらう。
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■槌屋少弐
■軍記二條家に仕ふ
■閑院宮家に仕ふ
■宮家にての不始末
捕縛せられた一類中最も古く軍記を知つて居るのは槌屋少弐
で、寛政七年京都祇園新地の借馬場で始めて懇意になつたとあ
る。少弐は豊後国高田芝崎村の生で、初め阿部勘解由と称し、
某宮方に勤めて居り、軍記が自ら長洲の生といふを聞き、一層
可懐しく、爾後折折軍記の訪問を承け、終にその依頼によつて
彼を二條家の祐筆頭役に吹挙した。尤も当時は少弐も右宮家を
辞して二條家に仕へてゐたのであつたが、何分にも最初の見込
と違ひ、軍記の所業に豪放我儘の事多く、少弐の忠告も聞入れ
ぬので、到頭二條家から暇が出で、それから如何なる手蔓があ
つたか、軍記は寛政十一二年の頃閑院宮家に住込み、五條醒井
亡富田屋利右衛門の借家に居つた。彼が藤井右門事伊良子桂蔵
に天帝如来の画像を示し、耶蘇の法を説いたは文化二年で、場
所はこの借家であつたこと、また豊田貢に同様の伝法に及んだ
は同七年の冬、貢に同伴せるきぬに画像を示したは同十三年で、
場所は倶に馴染の茶屋糸屋わさ方の一室であつた。然るに彼は
閑院宮家でも再び不始末を働き、翌十四年十二月同邸を駈落し、
寺田屋熊蔵方に一泊し、翌朝駕籠に乗つて伏見まで逃げたが、
其処で召捕となり、翌文政元年四月宮家からは永の暇となり、
家財諸色は残らず没収せられ、加之外宮堂上方の仕官をも差止
められて仕舞つた。「不勘定筋有之」とあれば、恐らくは富家
の金銀を遣込んだのであらう。
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富田屋利右
衛門
釜屋久兵衛
中村屋新太
郎
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其処で軍記は駈落の時密に目著しき家財を預けた不明門通五條
上ル亡釜屋久兵衛方に落付き、利右衛門・久兵衛・及先代新太
郎三人相談の上、新太郎の借家に住ふことゝなつた、此三人は
軍記と余程深い関係があつたらしい、不幸にして三人共本獄発
生以前に死亡して居るので委細は解らぬが、利右衛門新太郎が
一度も軍記より家賃を取らなんだことは、利右衛門の後家及当
新太郎の申口で分明だし、又駈落以前軍記の許に預けられて居
つた前記糸屋わさの養女とき並に久兵衛の娘もとの申口にも、
軍記方には容易に他人を入れぬ一室があつたが、利右衛門・久
兵衛・新太郎訪問の節は、必ずこの一室で談話をしたとある。
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■釜屋久兵衛
■富田屋利右衛門
■中村屋新太郎
軍記は駈落の時に密に目ぼしい家財を預けた不明門通五條上
ル亡釜屋久兵衛方に落付き、利右衛門・久兵衛及び先代新太郎
三人相談の上、新太郎の借家に住ふこととなつた。以上三人は
軍記と余程深い関係があつたらしいが、不幸にして三人共本獄
発生以前に死亡して居るので委細は解らぬ。然し利右衛門後家
及び当新太郎の申口に、利右衛門新太郎は一度も軍記から家賃
を取らなんだとあり、また駈落以前軍記の許に預けられて居つ
た前記糸屋わさの養女とき並びに久兵衛の娘もとの申口に、軍
記方には容易に他人を入れぬ一室があつたが、利右衛門、久兵
衛、新太郎訪間の節は、必ずこの一室で談話をしたとある。
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