Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.3.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その38

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (9)
 改 訂 版


長崎遊歴






























遺言

是歳七月頃軍記は大阪に下り、松屋次兵衛 本獄発生以前に病死 方や高見屋平蔵方に逗留し、平蔵と師弟の約を結び、九月一旦 帰京し、文政三年四月中句妻子を伴ひ再び来阪し、今度西国筋 から長崎へ遊歴に赴くにつき、相応年数も懸る見込とて京都の 家を畳みたれば、何分妻子の世話を頼むと平蔵に依頼して出発 したが、翌春に為つても一向音沙汰が無い、軍記の妻はそへと いひ、子は蒔次郎といひ、之はそへの実子ではなく、一時同人 方に下女として召使つた紅葉屋甚兵衛の妹ともに、軍記が手を 附けて生ませた者で、ともは蒔次郎出生後実家に帰り、幾もな く病歿した、かくてそへ母子は平蔵の世話で別に一軒の裏借家 を構へてゐたが、永々世話になるのを気の毒がり止むるを辞退               カノコ し、法貴政助を頼りて上京し、鹿子職を手業として微に其日を 暮して居ると、軍記は五年夏長崎より立帰り、平蔵を訪うて厚 く礼を述べ、暫時滞留の後京師に上り、恙なく妻子に面会し、 木屋町松原下ルに座敷借をして住んでゐた、其後は別に之とい ふ程の事もなく、そへは同六年、軍記は同七年十二月二十二日 に病歿したが、同人の遺言に、百事壮年の志と齟齬して残念之 に過ぎず、死後は火葬に附し、目印の石碑を建つるは却て耻晒 なれば、遺骸は焼捨に為て呉れよとあつたので、少弐政助等其 意に従ひ、軍記の頼寺なる五條醒井魚之店下ル町一向宗雲暗寺 に懸合ひ、火葬焼捨と為し、少許の諸道具を売払つて其葬式入 用に充て、蒔次郎は実母の縁にて紅葉屋へ引取られ、日記反古 類は当人成長の上引渡す筈にて少弐が持帰つた、之が軍記の一 生である、此略履歴から見れば、宗教家を以て彼を目するのは 甚だ危い、宗教家に欠く可からざる熱心は彼の生涯を通じて毫 も見る所が無い、遊興・遣込・駈落・蓄妾、何処に宗教家の面 影があるか、尋常蕩児と同様個人として既に指弾すべきである、 雲晴寺住持大瑞並びに組寺の吟味書朱書に、「軍記儀以前とは 替り、病死いたし候手前共見苦敷姿に相成」とある所を以て考 ふれば、恐く彼は風采人品賎しからず、「筆道修行其外万事に 事馴れた」者であつたらう、利右衛門・久兵衛・新太郎三人が 始終彼の面倒を見た所から推せば、一部の人を服する徳を備へ たのであらう、貢が折濫してまでも法を修めさせようとしたと きを預りながら、別に之に修行を勧めもせず、弟子として貢き ぬの如き意志の固い者のみを撰んだのは、多少人を見抜く見識 があつた者と言はねばならぬ、

 是歳七月頃軍記は大阪へ下り、松屋次兵衛方や高見屋平蔵方 に逗留し、平蔵と師弟の約を結び、九月一旦帰京し、文政三年 四月中句妻子を伴ひ再び来阪し、今度西国筋から長崎へ遊歴に 赴くにつき、相応年数も懸る見込とて京都の家を畳んだから、 何分妻子の世話を頼むと平蔵に依頼して出発したが、翌春に為 つても一向音沙汰が無い。軍記の妻はそへといひ、子は蒔次郎 といひ、之はそへの実子ではなく、一時同人方に下女として召 使つた紅葉屋甚兵衛の妹ともに、軍記が手を附けて生ませた者 で、ともは蒔次郎出生後実家に帰り、幾もなく病歿した。かく てそへ母子は平蔵の世話で別に一軒の裏借家を構へてゐたが、 永永世話になつてゐるのを心苦しく思つたか、平蔵の引止める カノコ を辞退し、法貴政助を頼つて上京し、鹿子職を手業として微に 日を暮して居ると、軍記は五年夏長崎から立帰り、平蔵を訪う て厚く礼を述べ、暫時滞留の後京師に上り、恙なく妻子に面会 し、木屋町松原下ルに座敷借をして住んでゐた。爾来別に之と いふ程の事もなく、そへは同六年、軍記は同七年十二月二十二 日に病歿したが、同人の遺言に、百事壮年の志と齟齬して残念 之に過ぎず、死後石碑を建てるは却て耻晒なれば、遺骸は焼捨 に為て呉れよとあつたので、少弐政助等その意に従ひ、軍記の 頼寺なる五條醒井魚之店下ル町一向宗雲暗寺に懸合ひ、火葬焼 捨と為し、少許の諸道具を売払つて葬式入用に充て、蒔次郎は 実母の縁にて紅葉屋へ引取られ、故人の日記反古類は蒔次郎成 長の上引渡す筈にて少弐が持帰つた。  以上が軍記の一生である。この略履歴から見れば、宗教家を 以て彼を目することは出来ない。宗教家に欠く可からざる熱心 は彼の生涯を通じて毫も見る所が無い。遊興・遣込・駈落・蓄 妾、何処に宗教家の面影があるか。雲晴寺住持大瑞並びに組寺 の吟味書朱書に、「軍記儀以前とは替り、病死いたし候手前は 見苦敷姿に相成」とある所を以て考ふれば、恐らく彼は風采人 品賎しからず、「筆道修行其外万事に事馴れた」者であつたら う。利右衛門・久兵衛・新太郎三人が始終彼の面倒を見た所か ら推せば、一部の人を服する徳を備へたのであらう。貢が折濫 してまでも法を修めさせようとしたときを預りながら、別に之 に修行を勧めもせず、弟子として貢きぬの如き意志の固い者の みを選んだのは、多少人を見抜く見識があつた者と言はねばな らぬ。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その37/その39

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