Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.3.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その39

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (9)
 改 訂 版

豊田貢










きぬ





さの








伊良子屋桂
造
高見屋平蔵

貢は越中の出生で、二歳の時父母に伴はれ、城州才院村に移り、 十二歳より諸所に下女奉公に住込み、二十四五歳の時は二條新 地明石屋抱の遊女となつて尾上と呼ばれ、其後縁あつて斎藤伊 織といふ土御門家配下の陰陽師と夫婦になり、下河原弁天町に 借家住居をしてゐたが、文化七年夫伊織に捨てられ、以来独身 暮の者である、きぬは摂州伊丹新町の出生で、幼年の砌父母に 離れ、十六歳の頃京都に赴き、諸所にて下女奉公を為し、七條 塗師屋町京屋喜兵衛の女房となつたが、文化元年夫を喪ひ、又 同人と姉妹の約を結び且つ同人より伝法を受けたさのは、当歳 で父・七歳にて母・十六歳にて祖父母・三十四歳にて夫に死別 れた不幸なる寡婦である、人生の悲惨を嘗尽した心狭き婦女子 が、彼等が認めて偉大なりとせる或勢力に偶然撞着した時、之 を信ずる力の嵐に煽られたる野火の如く熾なるは弁ぜずして明 だ、弟子の中でも伊良子屋桂造は岩井温石と名乗つて医を営み、            クスクリ また高見屋平蔵は元播州薬栗村禅宗曹洞派長慶寺の僧侶で鳳瑞 といひ、師匠全鳳より仏祖正伝血脈法戒等を請け長老格に進ん だ者である、平蔵は軍記が和漢の軍談に通じ、仏学易道に委し く、今迄出会した幾多の高僧学者が一道にのみ通じたるに反し、 彼が万事に通暁したるに感じ、偶々彼より利瑪竇即ち耶蘇会の 宣教師マテオ・リッチーが支那に拡めたる天主教の話を聞き、 儒仏の及ぶ所にあらずとして信仰するに至つたといへば、勿論 軍記は相当に学問のあつた者といはねばならぬ、平蔵の申口に は軍記を目して「眼色骨柄不凡俗、一方之軍将ニも可成程之才 智器量有之者ニ無相違」とある位である。

 貢は越中の出生で、二歳の時父母に伴はれ、城州才院村に移 り、十二歳より諸所に下女奉公に住込み、二十四五歳の時は二 條新地明石屋抱の遊女となつて尾上と呼ばれ、その後縁あつて 斎藤伊織といふ土御門家配下の陰陽師と夫婦になり、下河原弁 天町に借家住居をしてゐたが、文化七年夫伊織に捨てられ、以 来独身暮の者である。きぬは摂州伊丹新町の出生で、幼年の砌 父母に離れ、十六歳の頃京都に赴き、諸所にて下女奉公を為し、 七條塗師屋町京屋喜兵衛の女房となつたが、文化元年夫を喪つ た。又同人と姉妹の約を結び且つ同人より伝法を受けたさのは、 当歳で父、七歳で母、十六歳で祖父母、三十四歳で夫に死別れ た不幸な寡婦である。人生の悲惨を嘗尽した心狭き婦女子が、 彼等が認めて偉大なりとせる或勢力に偶然撞着した時、之を信 ずる力の嵐に煽られたる野火の如く熾なるは弁ぜずして明らか だ。  然し軍記を信仰したは偏狭に陥り易い婦女子のみでない。伊 良子屋桂造高見屋平蔵の如く相当事理を弁へた者もゐた。桂蔵 の一名が宝暦事件の藤井右門と同姓同名なのは偶然の暗合であ らう。彼は八九歳の頃両親に離れ、本国生国共に判然しないが、 「宮方家士の忰」といふ。十二三歳より寺院社家へ奉公し、神 祇道仏道を聞習ひ、また河内平岡の神官亡水走飛騨の許に居て 医術を修め、医者として岩井温石と名乗つたといへば、所謂深 くはないが、広い人であつたらう。            クスクリ また高見屋平蔵は元播州薬栗村禅宗曹洞派長慶寺の僧侶で鳳瑞 といひ、師匠全鳳より仏祖正伝血脈法戒等を請け長老格に進ん だ者である。平蔵は軍記が和漢の軍談に通じ、仏学易道に委し く、今迄出会した幾多の高僧学者が一道にのみ通ぜるに反し、 彼が万事に通暁して居るに感じ、偶々彼より利瑪竇即ち耶蘇会 の宣教師マテオ・リッチーが支那に拡めた天主教の話を聞き、 儒仏の及ぶ所にあらずとして信仰するに至つたといへば、勿論 軍記は相当に学問のあつた者といはねばならぬ。平蔵の申口に 軍記を目して「眼色骨柄不凡俗、一方之軍将ニも可成程之才智 器量有之者ニ無相違」とある位である。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その38/その40

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